そういえば、落語を聞いていると、心の重荷が軽くなる。さっきまで思い悩んでいたことが、誰にでもあること、どうでもいいこと、そのうちなんとかなることだと思えて、生きるのが楽になる。自分の失敗も他人のワガママも、許せるような気がしてくる。落語も古典か? わからないけど、古典というものが持つ力は、そこにあるのかもしれない。
「古典がすべてです、なんて言う根拠はないかもしれないけれど。やっぱり自分の中にある豊かさをどうやって探していくか。大事な物語というのは、心から心に伝わるものだから。瞬時にあらすじを知ったからといって、理解できるものではないし。語り口の問題だし、声の色合いだし、そういうもっと大事ななにかがあって、そこから豊かさに触れないと」
 タイパ重視で映像を早送りしてドラマを見ているだけじゃ、伝わってこないものがある。同時に、推し活にだって、意味がある。
「推し活、それでいいんです。世阿弥はそのことをね、花と言う。ただ問題は、それをどこまで遡っていくか、という。つぼみから枯れ果てるまで、すべての過程を含めて花というものの持つ命、その連続性があるわけです。〈時分の花〉という言葉がありますけど、たしかに若くて美しい、それは素晴らしいことだけど。花が美しいのは、昆虫に受粉を促して種を永らえさせるためであって、そこには歴史が込められているのであって」
 近年はミュージカルや2.5次元がすごい人気。
「さまざまな趣向があって僕はいいと思います。僕はホメロスの『オデュッセイア』の第11歌『冥府行』を能の台本にして、それをギリシャの古代円形劇場で上演したこともあります。演劇の国際フェスティバルで、ギリシャのプロデューサーから、能役者なら死というものを端的に表現できるはずだとオファーされたんです。僕はそのとき、文庫本で30ページ分くらいのボリュームがある話を、5ページ分くらいに削ぎ落とした。言葉が多すぎると長々しくて散漫になるんです。魂のドラマだから、しゃべりすぎると、どんどん嘘になっていく。能は凝縮するものだから、一番肝腎なことは、ひと言で成立しますから。でもギリシャの人たちは原作者のホメロスに対する絶対的な信仰があるので、揉めましたけどね(笑)。折り合いがなかなかつかなくて、最後はもちろん、こっちのやり方で通しました」
 ギリシャ神話と能の対決、なんか、時空を超えてすごいことになっている。
「演劇の発生がどこにあるか、というとね、やはり、亡き人を悼む、ということなんです。鎮魂ということが、演劇の始まり。古事記に出てくる、天稚彦(あめわかひこ)という人が死んだときに、その人を讃えるための歌と舞を八日八夜(やかやよ/8日間の昼と夜)を尽くしてやった。そしてもうひとつは、祝言です。今は結婚式をそう呼びますけど、祝言というのは新しい命が生まれいずる歓びだったり、五穀豊穣を祈ったり。人類はいつもさまざまな災害と闘ってきたけれど、それに対して安穏に豊かに暮らせることを祈ることが共同体の原点です。そんな中で亡き人を悼み、新しい命を寿ぐのが、芸能の出発点だったと、考えています」

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若村麻由美の劇世界『あこがれいずる』源氏物語より 2024年11月22日(金)~24日(日) https://204e37d3fb9a011.lolipop.jp/schedule.html