藤舍貴生が生まれたのも、1970年。生まれたばかりの息子に、呂悦は邦楽の楽器を与えてみたという。
呂悦 ハイハイしてるときにね、太鼓やらバチやらいっぱい置いといて、真ん中に座らせて、見てたんです。したら、興味もったんやな。バチをこう、ちゃんと持ちますねん。ただの棒やけど、バチとしてちゃんと持った。すごいな、と思ったことあります。でも僕は自分では教えませんでした。稽古はヨソでさせてます。
 
 邦楽のエッセンスをたっぷりと浴びながら、貴生少年はすくすくと育った。家は京都の先斗町。稽古に通ってくる芸妓さんや演奏家に囲まれて、囃子や三味線の色が貴生少年に染みこんでいく。太鼓も笛も三味線もなんなくこなす彼を、世間は邦楽の天才少年、神童と呼んだ。
貴生 中学のときにはすでにその、おかしかったです。ふつうの中学生がポップスを聴いているときに、僕は長唄を聴いている。長唄のLPレコードかけながら眠りにつき、朝の目覚ましも長唄が流れるようにセットしてました。あきらかにおかしいですよね(笑)。
 はじめはみんな、喜んでいたんですよ。誰に何を言われなくても、LPかけながら笛を吹いて練習していました。高校生になるとそれが高じて、勉強よりも稽古がしたくて学校を早退したり、休んだり。それを見ていた祖母がだんだん心配になってきたらしく、お小遣いあげるから外で遊んでおいでって言われたくらいです。

 うん、かなりおかしい。高校は京都の東山高校、かなりの名門高校だ。
貴生 文化祭では僕、紋付きを着ていって、ドラムやってる友達に好き勝手に打たせて、僕はアドリブでそれにからんで笛を吹いたりしてました。あと、学校にタクシーを呼んで、そのまま新幹線に乗って東京の舞台に出るとか。期末試験のときもどうしても出たい舞台と重なってしまって、先生に直談判して、テストよりも舞台を優先してました。理解のある、ちょっと変わった担任だったので助かりましたけど(笑)。

 邦楽以外の音楽は、聴かなかった?
貴生 いや、演歌もフォークも好きでした。さだまさしとか松山千春とか(笑)。でもそれ、みんながおにゃんこクラブに夢中になっている時代ですから、10数年ずれているんですよね。あと、布施明とか、好きでした。クラスメートの前で、『シクラメンのかほり』をギターで弾き歌いしたら、さーっと引かれてました (笑)。
 他人と一緒なのが嫌だった、というのもあります。天の邪鬼で、みんながわーっと飛びつくような流行からは、あえて目を背ける、みたいな。僕、そういうとこ、あります。

 東京藝術大学の邦楽科、太鼓を専門に学んで卒業し、しかしプロの演者として彼が選んだのは、太鼓ではなく、笛だった。前回のYEOでその理由を、『笛が一番苦手だったから、選んだ』と言っているのだが。父・呂悦はどう思ったのだろう?
呂悦 僕は、太鼓をやれとは言いませんでした。自分がやろうと思うもの、好きなものなら、うまくなるのが早いから。だからええんやないか、と。それにしても、こんなになるとは、思っていませんでしたけど、ね。プロとして、ええ根性してると思います。親が言うのもなんですけど、ほんま根性は負けません、この人。負けとらんから、頼もしいなと思ってます。

 さらに、邦楽の演奏家としての枠を超えて、作曲やらプロデュースやら、藤舍貴生の活動は多方面に拡大中。父・呂悦の活動を見て育ったのなら、それも当然のことか。
貴生 たしかに邦楽の世界の中には、封建的で、あれもダメこれもダメっていうお家もあるんですよ。でもうちの流儀、藤舍流というものが、新しいものを気風として取り入れる感覚を常に持っているんです。父はその中でも突出していたとは思いますが(笑)。

 このコロナ禍で、もちろん多大な影響を受けたものの。
貴生 逆に僕は、だんだん仕事が忙しくなったんです。演奏する舞台の仕事は止まりましたけど、コロナでみんなが映像を作り始めたので、そこにつける曲を作って欲しいという依頼が続きました。さらに僕自身、YouTubeで素人ながら、トーク番組を作って、萩庭さんにも出ていただいたり(笑)。
 こういう危機的状況がくると、その人間の色が出るのかもしれませんね。防戦一方で自分のできることしかしない人間は、ふだんどんなにエラそうなことを言っていても、だんだん姿が見えなくなる(笑)。意外な人が、それまで出来なかったことに挑戦したり発信しはじめると、だんだん目立ってきたり。コロナ禍で僕らは、神様のふるいにかけられているのかもしれない。今後残るヤツと落ちるヤツを、選別されているのかもしれません。

さてここからが、今週のYEOの本題。藤舍呂悦と藤舍貴生が、12月20日と21日、父子リサイタルを開く。その顛末は明日、詳しく。

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写真は、歌舞伎俳優 中村莟玉さんパーソナリティーのNHKラジオ「KABUKI TUNE」にゲスト出演収録時