ふせえりが20代前半に知り合い、その後の活動を支えてもらったのが、シティボーイズ。大竹まこと、きたろう、斉木しげるの3人が結成したコントグループで、ナンセンスで不条理で、社会風刺もあれば内省的でもあり。センスがよくてシニカルで、ときどきおバカなその舞台には、中村有志、いとうせいこう、三木聡、竹中直人、宮沢章夫などそうそうたる顔ぶれが作家やゲスト出演者として集まっていた。
「私がまだ女優じゃ稼げないだろうからって、大事に育ててくれたんです。シティボーイズの舞台にも立たせてもらったんですけど、日々鍛えられましたね。打てば響く、じゃないけど、何か球を投げられたとき、うまく打ち返さないと切られちゃうっていう危機感がすごかった。切られたらそこで、出番がなくなるわけですから」
 さらに中村ゆうじ、いとうせいこうらが立ちあげた演劇ユニット『ラジカル・ガジベリビンバ・システム』にも参加するようになる。スタイリッシュなお笑いと演劇が融合する舞台は、ふせえりを鍛えてくれた。
「稽古場で試されるから。稽古場でうまくいって面白いと認定されると、宮沢章夫が次のとき、台本にしてくるんです。でもダメだと、その役は消えている。そう、すごい厳しかったですね。球が来たら打ち返さないと。だから見逃し三振はしないの。絶対に振る。当たっても当たらなくても、振るんです」
 その一方で、TVのバラエティ番組にも顔を出すようになった。
「女優がアルバイトするとなると、なかなか難しくて。芝居の仕事が入ったらそっち優先だから、休んでもOKの職種って、どうしても水商売になりがちでしょ? それは良くないからって、レポーターとかのお仕事を回してもらっていました。よくやりましたよ、食レポとか(笑)」
 気転が利いてしゃべりがうまくて的確に状況を伝えられる。レポーターの仕事はふせえりに向いていたのかもしれない。
「けっこう重宝されたんです。それで日々の生活が安定しちゃったんですね。人間、お金が入ると安心しちゃって、いろいろ買い物しちゃったり旅行したりして。年に何回かはシティボーイズがらみで舞台に立てるし、お金はそこそこ入ってくるし、いろいろしなくても、やっていけちゃう。だったらそこで勉強しろよって感じなんですけど、自分は本当にダメ人間だなぁって」
 30歳を過ぎる頃、そんな自嘲の想いが、コップのふちまで貯まりに貯まって。
「このままだと、レポーターもそろそろ限界だし、役者も辞めることになるよなって」
 本当にそれでいいの? と自問自答して、出した答が。
「舞台はもう休んで、レポーターも辞めて、映像に行こう、と。役者として、女優としてもうひと息頑張ってみようと思ったんです」
 当時ふせえりを担当することになった若手マネジャーが、そんな彼女の意志を聞いて、頑張った結果。
「『温泉へ行こう』(1999~2004)という昼ドラと『ナースのお仕事』(2000~2002)のレギュラーを取ってきてくれたんです。そこから、ですね。舞台もやめて、映画とかドラマとか映像の仕事を中心に、なんとか仕事が入ってくるようになったのは」