「朝ドラの主役デビューしたのが、26歳のときでしたね」
 NHK朝の連続テレビ小説『ロマンス』は1984年、あの『おしん』の後に放送され、平均視聴率は39%。まさしくスタア誕生。そこからは順調な俳優生活がスタートすると・・・・。
「と、思うでしょ? 全然そんなことなかった(笑)」
 その朝ドラ主役デビューは、オーディションで獲得したもの。でもそのオーディションを受ける直前、彼はひとりでインドを放浪していた。
「劇団四季を辞めてすぐ、ひとりでインドに行ったんです。安いチケットを買って、ひと月くらい。それで、インドってよくわからない国だなと思って、ハマってしまったんですよ。『ロマンス』が終わるとすぐにまた、インドに行きました。20代から30代は、ほぼそういうことをくり返していましたね。
 32歳のときに映画『天と地と』をやって、それが僕にとっては転機になったんですけど、次の年に市川崑監督の『天河伝説殺人事件』で浅見光彦をやって、それが好評だったので35歳くらいからテレビシリーズが始まった。だからポンポン目立つ仕事はしているんですけど、ひとつやると次の仕事までの間、またすぐどこかに行っちゃうんです。あと、ドキュメンタリーが大好きだったので、けっこう世界のあちこちに行ってました。他の人が嫌がるような辺境の地とか、あまりにもしんどいので誰も行きたがらない場所、チベットの山岳地帯とかアマゾンの奥地とか、『はい、行きます!』ってすぐに手をあげちゃう(笑)。だから仕事の本数はさほど多くなかったんじゃないかな」
 せっかくスタアになったのに、どうして日本を離れたのだろう?
「辺境の地に行くと、なんかほっとする(笑)、落ち着くんです。
 たとえばインド、インドは辺境の地じゃないけど、行くと初日に、地元の生地屋さんに行って、採寸してもらって、クルタパジャマというみんなが着ているような服を2着、作ってもらうんです。当時は日本円で500円くらいだったかな。待っていればその場でミシンをかけて作ってくれるから。着ていった服はぐるぐる巻いて、バッグの底にしまいこむ。チャッパルというサンダルを買って、私はほら、顔がわりと大げさなもので、日焼けして肌の色が黒くなると、日本人とは思われない。インド人化して(笑)、そこから旅の始まりです。
 安宿に泊まって、そこに来る世界中からの旅人と交流して、次の目的地が決まればまたそこに行く。その日着ていた洋服を夜、シャワーを浴びながら洗濯するだけで、『今日はすごい充実しているなー』って(笑)、そういう不思議な時間と空間を味わっていました」
 放浪は心の栄養になるみたい。たくさんのことを思い、考えた。
「日本人は、どこに行っても自分の尺度でモノを見る傾向があるんですね。だから行った先で日本と比べて、ああ、貧乏でかわいそうだ、とか、汚らしい、不潔だ、とか。でも実際にそういう所で暮らしてみると、精神性においては遙かに日本より上だったりするんです。見た目はほとんど路上生活のように見えるけれど、物質的な豊かさよりも、もっと別の豊かさを持っている。そういうことに気付いていくことが楽しくて、それで結果的にインドだけでも13回くらい、足を運んでいます。日本から外に出ることで、よりわかることがあるんです。日本はたしかに第2次大戦後、物質的に豊かになったのかもしれないけれど、大事なのはそこじゃない、本当はそうじゃないんだって、若い時に旅を通して気づけたのは、良かったと思いますね」
 世界の広さを知っていれば、自分の小ささがわかる。どこに行っても自分は自分でしかないのだと、腑に落ちる。
「芸能界にいると、ふつうよりは派手な世界だと思うので、その中しか知らないと、勘違いしてしまいますよね。私は早い時期からひとりになって考えたり、そういう所に行くことで見えてきたものもあった。そういうところに行けば行くほど、自分がどうってことないよな、と思えた。そのためにも行って良かったのかなと、思います。40何年間こうして俳優という仕事をずっと続けてこられたのは、そこらへんがあったから、かもしれないね」