生まれたのは、鹿児島県。
「薩摩です。姉が3人いて、子どもの頃はいつもおままごとの相手をさせられていて、ちょっと軟弱で、泣き虫でよく泣いていました。オヤジは悔しかったんでしょうね。なんとなくその親父の気持ちを察知して、中学の頃から剣道部に入ったんです。入ったんですが、稽古が厳しすぎて途中で辞めちゃいました(笑)。武術に類することの教えは、いろいろなところに今もたぶん、生きているとは思いますが」
 剣道部を辞めた後、高校で入ったのはバスケット部と美術部。
「そこだけが女子生徒と合同でやれるクラブだったから、です(笑)。私が行った高校は男女共学の県立高校でありながら、通学の電車は男子と女子で車輌が分かれていたり、クラスも男子と女子と分かれていました。ちょっと心惹かれる女の子がいても、遠目に眺めているだけです。廊下ですれ違っただけで〝今日は良い日だ!〟って(笑)。先輩から殴られるひとつの理由は、『お前さっき、女子と話していただろう』ですから」
 ま、今から半世紀近く昔の話とはいえ、さすがは薩摩。すごい男尊女卑。
「でもウチの親父も、外では威張っていましたけど、帰ると、お袋には頭が上がらない。それが現実でした。女性がちゃんと手綱を握って引き締めているからこそ、男性が外で自由に動ける、という。第2次世界大戦後、男女同権という言葉が日本の外から入ってきましたけど、私の解釈では、男女同権というのは男と女が同じ立場で同じ仕事をして同じ主張をするのではなく、男性も女性も互いの立場を認めた上で、それぞれの生き方を全うするということではないか、と」
 高校を卒業後、美術大学に入るために東京へ。
「カルチャーショック、すごかったです。まず人の多さに驚いて、山手線になかなか乗ることができませんでした。東京に慣れるまでずいぶん時間がかかって、東京に出てきて1年2年くらいは、何か自分がおかしくなりそうだった。なんでこんなに精神が安定しないんだ、イラつくんだろう?って」
 そこで、気付いたことがある。
「そうか、山がないからイライラするんだ、と。とにかく山だらけの盆地で育ったものですから、常に視界の中に山があるんですよ。それが東京に来てみたら、空と建物と電線ばかりで、どこにも山がない。そこでときどき、中央線に乗ってはるばる山梨とか長野まで行って、山を眺めました。すると不思議に気持ちがスーッと落ち着くので、また電車に乗って東京に戻るんです」
 そんな東京でひとつ、見つけたことがある。
「今までにない自分を、探したくなったんです。それまで非常に厳しい環境で自分を発揮できなかったけれど、東京では、誰も私を知らない。誰も見ていない。だったら今までに経験したことのないものをやってみようと。で、タイミングよく、週刊誌の広告に目がとまりました。『あなたもなれる、明日のスタア』って(笑)」
 某劇団のオーディションを受け、ドキドキしながら試験を受けて、見事合格。
「でもそれ、ほぼ全員が合格していたんです(笑)。まあ、1週間に1回は演劇クラスがあったので、真面目に芝居の授業を受けました」
 演劇がだんだん面白くなり、もっと本格的に学ぶため、劇団四季へ。
「武蔵野美術大学に入っていたので、20歳過ぎくらいのあの頃、忙しかったです。朝7時には劇団四季の研究所に行き、稽古場の掃除をしたあとレッスンを受ける。その後すぐ武蔵美に行って授業を受けて、夕方からはバイトです。新宿の歌舞伎町で、キャバレーの呼び込みとか、してました。夜中に家に戻って、睡眠時間は4時間くらいだったかな」
 そして、選択すべきタイミングが。
「二兎を追う者は一兎をも得ず、だと思って、大学を辞めました。何の保証もないのに芝居を選んだんです。母親には泣かれました」
 20代半ばの榎木青年は、そこからどうする?