大学院修了後、ピアニストとしてデビュー。2年目に、大きな試練が待っていた。演奏会の本番中、左手の小指の腱が切れてしまったのだ。
「ミスタッチしたので、おや? と思って見ると、小指がぶらぶら、まったく動かないんです。何が起こったのかわからないまま、左手の薬指と小指を使わずになんとか演奏を切り抜けました。翌日病院で診てもらったら、小指の腱はズタズタに切れていた。それまで薬指をカバーするために無理していたのが、たたったのかもしれません」
 治るまで、時間がかかった。
「というか、今でも元には戻っていません。でもね、すぐに、なんとかしようという気持ちが芽ばえたんです。もともと悪いところがなかったら、きっともっと、衝撃が大きかったと思います。けど、元から薬指が悪かったので、この小指でも工夫すればなんとかできるはずだ、と。お医者様も、その自分の指でどういう活動ができるのか、考えながらやるのなら、復帰できるだろうと言ってくれました。ですから僕の場合、楽譜通りに弾かないとよく言われますけど、それは弾かないのではなくて、弾けないんです。このケガが、指使いは変えてカバーしながら、自分なりに編曲して弾く、という原点になりました」
 同時に彼は、小指のケガが治るのを待って、改めて基礎練習に立ち戻った。バイエルやツェルニーなど、初めて練習曲に真面目に取り組んだのだ。その結果、彼の演奏はますます、スキルアップ。以前よりもその演奏には、磨きがかかった。
 そしてもうひとつ、その小指のケガが、教えてくれたことがある。
「僕にとってこの小指の腱が切れてしまったのは、一生の問題。デビューしたばかりでしたし、すごい落ち込みました。でもふと気が付くと、病院の待合室には包帯をぐるぐる巻いた人、重い怪我の人がたくさんいるんです。小指1本で暗い顔をしている僕なんて、彼らから見たら、あいつ、何しているんだ? って話でしょう(笑)。そこで、気が付いたんです。ひとつの出来事でも、いくつもの見方がある。モノの見方とか感じ方は、自分次第なんだって」
 音楽が好きなら、ピアニストにこだわらなくても、教育や作曲など、いくらでも道がある。そんなふうに思ったことが、あとあと、思わぬ形で実を結ぶことになった。