ピアノを習い始めたのは6歳のとき。父親がクラシックギター奏者だったので、音楽には幼い頃から慣れ親しんでいたという。けど小原孝には、ピアノを弾く上で、ハンディキャップがあった。
「左手の薬指が、もとから曲がったまんまで動きにくいんです。だからこの子はピアニストにはなれないだろう、とまわりの大人たちが判断したのか、僕があまり真面目にレッスンしなくても、怒られなかった。他の子たちにはビシバシ厳しく教えるのに、僕がテレビ番組のテーマソングをコピーして勝手に弾いて遊んでいても、大目に見てもらえたんです。僕はそれをラッキー! と思ってました」
 いつのまにかレッスンから離れてしまい、中学に進学するときのこと。
「某私立中学を受験しようと、願書を取りにいったんです。そのすぐそばに、音楽中学があったんですね。ピアノの音が聞こえてきたので、立ち止まって聴いていたら、その学校の先生が出てきて、すごくていねいに対応してくれた。音楽が好きならぜひ、ウチを受けてみないか? って。女生徒ばかりなので、男子生徒が欲しかったみたいです(笑)。で、僕としては、こんなにちやほやしてくれるし、女の子ばかりでモテるかもしれないし、こっちがいいな、と(笑)。受験日がたまたま1日ずれていたので両方受けました。当時ピアノは辞めていたけど、ソナタを1曲だけ自己流で弾けるようにして、先生に師事しないまま受験しました。結果は、第一志望の学校には落ちてしまって、音楽中学は合格したんですよ。ここが運命の分かれ道、でしたね」
 ピアノの基礎練習はほとんどやっていなかったので、入った当初は劣等生。とはいえ。
「入ってからは、毎週レッスンがちゃんとあるから、ちょっとだけ真面目にやりました。でも中学から高校と、それほど良い生徒じゃなかったと思います。耳は良いのか、音を聴いたらぱっと弾ける、というタイプだったので、練習しなくてもなんとかなったんですね」
 しかし、大学に進学するとき。
「あまりにも僕が勉強しないから、ウチの父が、もう学費を出さない、と宣言したんです。父親に辞めろと言われ、そうか行けないのか、と思ったら逆に、僕は真剣に音楽の学校に行きたくなった(笑)。ダメと言われると、やってやろうじゃないかと思う、僕の性格を見抜いた、父のうまい教育法だったのかもしれません。学費の安い、国立(こくりつ)の藝術大学のピアノ科を目指しました。結局、最終選考で藝大は落ちてしまい、1年浪人してバイトに明け暮れ、古巣の国立(くにたち)音楽大学に行くことになりました」
 大学院に進むときにも、1年浪人。ピアノ教師やバーのピアノ弾きをするなどして学費を稼いだ。
「それに、奨学金をいただきました。都合6年間奨学金をもらったので、大学院を出た時点で、すごい莫大な借金を背負っていたんです」