リストだのベートーヴェンだのブラームスだの、こんなにいろいろな作曲家の曲を弾いていると、田崎悦子はこう言われることがある。〝田崎さん、なんでも弾けるんですね!〟
「私ね、そう言われるのが一番イヤなの(笑)。私は、〈何でも屋さん〉ではないんです。たしかに何にでも興味があるし、ま、興味のない作曲家もいますけど、いろいろな人の曲を弾くけれど、その時々に、その人じゃないとダメ、っていうのがあって、深ーく入り込んでしまう。その人の音楽が心の中に刻み込まれて、その上で弾いているんです」
 田崎を世界的ピアニストにしたのは、バルトークだ。1979年、シカゴ交響楽団常任指揮者ゲオルグ・ショルティに見出され、定期演奏会でバルトークのピアノ・コンチェルト第2番を演奏。それを機に欧米諸国で認められ、長く活躍することになった。
「小さい頃から良い教育を受け、良い先生に恵まれ、良い出逢いがあり、良いコンサートがあって、今があります。おかげで打鍵が強かったので、バルトークを演奏することができた。じゃなければショルティさんとは、弾けなかったと思います」
 当時はニューヨークを拠点に活動していたのだが、日本からもリサイタルのオファーがあり、18歳で渡米してから初めて、日本に戻った。11年ぶりの帰国だった。
「日本語を忘れてました。18歳からの11年、感受性の強いその時期に、ひとりで必死で海外で暮らしていたから、頭の中から日本が消えていたのね。実家に戻ったときに靴のまま家に上がって、怒られたくらい(笑)」
 でも日本は、日本のままだった。
「向こうでは黒のシンプルなドレスやパンツスタイルで演奏するのが当たり前だったから、私はふだん通り、パンツルックで舞台にあがり、演奏したんです。プログラムの最初にバルトークをもってきて、その格好でいきなりガーン、と弾いたものだから、みんなびっくりしたみたい。その頃、日本でバルトークという作曲家はあまり知られていなくて、演奏したのは私が最初だって言う人もいるんです」
 今から50年前の日本では、クラシックの演奏会といえば、ピアノ奏者はパステルカラーのヒラヒラドレスが定番。そこにシンプルなパンツルックで登場し、強い打鍵と壮絶な表現力でバルトークを演奏したものだから、
「良くも悪くも評判になって、いや、悪い評判のほうが多かった。もう2度と日本に戻ってくるのはイヤだって思いました(笑)」
 さらに20年ほど海外で活躍を続け、徐々に拠点を日本に移したのは、50代以降のこと。それからは演奏活動だけでなく、後進のピアニストたちに教える機会が増えたのだが……、そのお話は、また明日。