バッハというのは、すごい難物らしい。長く輝かしいキャリアを持ち、今も現役バリバリのピアニスト、田崎悦子が6月6日に予定しているコンサートを前に、
「バッハの曲は、やればやるほど、難しくなるんです。今の私がどこまでできるかわからないけど、すごい謙虚な気持ちで向き合ってます。なんかちょっと私、マゾみたい(笑)」
 珍しくそんな弱音を吐くくらい、ピアニストにとってバッハは特別なものだという。
 「でもね、今はバッハなの。バッハじゃないとダメなの」
 田崎悦子がこのYEOに登場するのは3年ぶりの、2回目(1回目は2018年1月15日~19日)。前回は『三大作曲家の愛と葛藤』というタイトルのリサイタルを前にしたインタビューだった。
「その3年前(2015年)にベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの最後の作品を弾く『三大作曲家の遺言』というシブいものをやって、その反動で華やかなロマン派のリスト、ショパン、シューマンの曲を集めて弾きたくなったんです。それをやったらもう私の気持ちが収まるかな、と思っていたんだけど、そうでもなかったのね。次は、すべての音楽の根っこであるところのバッハ、巨木のようにすべての枝があり、葉が繁り、威容を誇るバッハを、やるなら今しかない。できるうちにやりたい! と思ったの」
 田崎によるとバッハは、
「天才で、しかも努力家で、その上ユーモアのある、人間的に豊かな人だと思います。彼の曲は大きな建造物のような壮大さがあって、隅から隅まできっちりと構成されている。パーフェクトなんです。しかもディテールに至るまで緻密に計算されていて、そこに人間の心のアヤとか幸せや苦悩の重さ、心のひだまでみっちり詰まっている。だから中途半端な気持ちでは、とてもじゃないけど取り組めません。技量や気持ちが足りないと、そのままつまらない曲で終わってしまうし、弾く者の人間性まですべて見透かされてしまう」
 そんなバッハの多くの作品の中から今回、田崎が演奏するのは、パルティータの4番と6番、そして1番だ。
「4番というのはスケールの大きな勝利の歌、なんです。王様が歩いているような威厳がある。6番は最初から〝殺すぞ〟〝殺されるぞ〟みたいな激しさがある。両方とも、私の好きなデカイ曲で、人間の精神の両極端にあるものが描かれています。弾くのも大変、殺されそうです(笑)。そして1番は小さくて繊細であたたかい曲。人前で弾くのはこれが初めてです。この3つの曲を一緒に弾けば、人間そのもののすべてを表せるような気がするんです。ま、私がそれを表現できるか、わかりませんけど(笑)」
 田崎の弾くバッハに、クラシックファンからは、熱い注目が集まっている。
「そうね、世の中にはバッハイストという方たちがいて、昔からバッハを研究して、かくあるべき、という意見を持っている方がたくさんいるんです。だからバッハを弾くには、ただの勇気じゃ足りないの。その人たちにとって私の弾くバッハは、ひょっとしたら邪道かもしれない。でも今って、いろいろな人がいろいろな表現をするのが許される時代だと思うし。たとえ何か言われてとしても、それはその人の問題だから。私の問題じゃないから(笑)。私は私の人生の宿題として、私のバッハを弾こうと思っています」
 本格派のピアニストにして、ざっくばらんでオープンマインドのマイペース、至極チャーミングな女性だ。彼女がピアノに賭ける思いには、人生を愉しむための秘訣がそこかしこに隠れている。今週はそれを、金曜日まで連日更新でお伝えします!

  • 出演 :田崎悦子 たさき えつこ

    桐朋学園音楽科高校卒業後、フルブライト奨学金を得てニューヨーク・ジュリアード音楽院に留学。卒業後30年間、国際的に演奏活動を続けた。1971年ヨーロッパ・デビュー。72年カーネギーホール・デビュー。79年世界的指揮者ゲオルグ・ショルティに認められ、シカゴ・シンフォニーとデビュー。サヴァリッシュ、スラットキン、ブロムシュテット、小澤征爾など世界第一線の指揮者と協演。日本でもN響をはじめ各地のオーケストラと協演。2015年には『三大作曲家の遺言』シリーズでベートーヴェン、ブラームス、シューベルトを演奏。絶賛を浴び、NHKBSプレミアムにて複数回放送された。アメリカワシントン大学教授、東京音楽大学教授、桐朋学園大学および同大大学院特任教授を歴任。2002年よりピアノ合宿『Joy of Music』八ヶ岳と奈良、カワイ表参道「パウゼ」にてシリーズ『Joy of Chamber Music』『Joy of Music40+』総合ディレクター。

    HOME PAGE/http://www.etsko.jp/

  • 【公演情報】

    『Joy of Music』全3回シリーズ ‘21~’22
    第1回『Joy of Bach』21年6月6日(日)
    東京文化会館小ホール 13時15分開場 14時開演
    全席自由:一般5000円 学生3000円
    問合せ カメラータ・トウキョウ 03(5790)5560
    http://www.camerata.co.jp/

    第2回『Joy of Brahms』11月14日(日)14時開演
    第3回『Joy of Schubert』22年6月予定

  • YEOからお知らせ:YEO専用アプリ

    このYEOサイトにダイレクトにアクセスするためのスマホ・タブレット用の無料アプリです。
    とてもサクサク作動して、今まで以上に見やすくなります。ダウンロードしてください。
    iOS版 iOS

    Android版 Android

  •  

    取材/文:岡本麻佑

    国立千葉大学哲学科卒。在学中からモデルとして活動した後、フリーライターに転身。以来30年、女性誌、一般誌、新聞などで執筆。俳優、タレント、アイドル、ミュージシャン、アーティスト、文化人から政治家まで、幅広いジャンルの人物インタビューを書いてきた。主な寄稿先は『éclat』『marisol』『LEE』『SPUR』『MORE』『大人の休日倶楽部』など。新書、単行本なども執筆。

  • 撮影:萩庭桂太

    1966年東京生まれ。東京写真専門学校卒業後、フリーランス・カメラマンとして活動開始。
    雑誌、広告、CDジャケット、カレンダー、WEB、等幅広いメディアで活動中。
    ポートレート撮影を中心に仕事のジャンルは多岐にわたる。
    「写真家」ではなく「写真屋」、作家ではなく職人であることをポリシーとしている。
    雑誌は週刊文春など週刊誌のグラビア撮影を始め、幅広い世代の女性ファッション誌の表紙を撮影中。
    http://keitahaginiwa.com/