高柳卓也が初めてファドを知ったのは、19歳の頃。
「先輩のミュージシャンたちと話していると、みんないろいろな音楽を知っているんです。だったら僕も、と、ワールドミュージックを片っ端から聴きました。当時、新宿の新星堂というレコード店にはヨーロッパとか中南米とか、世界各国の音源があったんです。その中のひとつが、ファドでした。聴いた瞬間、その声とメロディと詞、独特なギターの音色に、グワーッと引きこまれた。シンプルだけど力強くて、胸の奥まで刺さってくる。それまでまったく知らなかった、興味もなかったポルトガルという国に、ものすごく惹かれました。僕は前世でこの国にいたのではないかと、信じたくなるくらいに」
 そんな思いを抱えたまま、23歳のとき、初めてポルトガルへ。
「想像していた通りであり、それ以上の深さを持った国でした。街も人も音楽もすべてがリンクしていて、ファドの聖地であるリスボンの旧市街にいると、どこかから、ファドが聞こえてくる。この街に混じり合って、言葉を覚えながらファドを学びたい、ここに住みたいと、思いました」
 だけど、そこから6年、高柳は日本を離れなかった。
「ひとりのシンガーとして、まだ自信がなかったんです。バンドやグループの一員としての責任もありましたから、区切りがつくまで、実力を磨きながら待つことにしました。一番力を入れていたバンドが活動休止になった29歳のとき、自分の中で、『そろそろ大丈夫かな』と思い、ポルトガルに渡ったんです」
 2003年、3ヶ月滞在しながら、ポルトガル語の学校に通い、様子を見た。
 そのときたまたま、実力派のファド歌手が歌を聴かせることで有名な某老舗レストランで、ファドを歌わせてもらう機会があったという。
「僕が借りていたアパートの大家さんが素敵なマダムで、その人は亡き夫と一緒によくそのレストランに行っていて、オーナーとも昵懇だったんです。で、僕を食事に連れて行ってくれて、『この日本人はファドを学ぶためにポルトガルに来ている。実は彼も少しはファドを歌えるらしいのよ』って、紹介してくれた。そうしたらオーナーが、『ちょっと楽屋に来い』と。『何が歌えるんだ? 歌ってごらん』というから、歌ったんです。すると、『その一曲だけ、歌っていいよ』って、ステージにあげてくれました。そのあと、『いつでも、お前が来たいときに来て、歌っていいよ』って」
 そして翌2004年の秋、強い覚悟とともに、彼はポルトガルに住み始めたのだ。
 貯金を切り崩しながら、1日5ユーロで暮らす日々。週末、日本食レストランで働いたり、歌わせてもらったレストランで、まかないの食事を提供されたり。旧市街の空気を胸いっぱい吸いながら、ファドの歌い手、ファディスタへの道を、少しずつ歩き始めた。
 とはいえ、ファドはポルトガルの魂。その国の固有の文化を、外国人が見様見真似で挑戦しても、なかなか受け入れてもらえるものではなかったようで・・・・。