未来の夢に向けて、高柳卓也は高校1年生のとき、格闘技道場に通い始めた。UWFの選手も通う、本格的な道場だ。素質もあったのだろう、道場の先輩たちは親身に指導してくれた。けれど。
「性格があまりこう、激しいほうではないので、ついていけなくなったんです。身体を動かすのは楽しかったんですけどね。もともと持っている自分の性格を変えて頑張るか、迷ったのですが、断念しました。本来の自分を活かすには、音楽のほうが向いているのかもしれない、と。
 道場の先輩たちに申し訳ない、と思いましたが、先輩たちは、僕の決意を快く受け入れてくれました。『誰がなんといおうと、世間がどう思おうと、揺るぎないものをもって生きて行って欲しい』というはなむけの言葉をくれて、それからの僕は、その言葉を大事にしながら生きてきたんです」
 なるほど、たしかに。高柳卓也、ぱっと見はちょっとコワモテ風だけど、話す言葉は優しくて、気配りが細やか。対戦相手をぶっ倒すぞ! みたいな修羅場はあまり得意じゃない、というのがよくわかる。
 そこから彼は、すぐさま方向転換。ボイス・トレーニングに打ち込んだ。目指すはソウル・ミュージックのシンガーだ。
「でも時代はロックだったんです。ちょうどテレビで『イカ天』(『三宅裕司のいかすバンド天国』1989年2月11日~1990年12月29日)をやっていて、バンドブームだったんですけど、ソウルをやろうという仲間はなかなか見つからなかった。高校を出たあたりでブラックミュージックを好きな人たちとようやく巡り会えて、そこからソウルミュージックのルーツであるゴスペルに出会ったんです」
 時間稼ぎのために進学した大学で、たまたま選んだ社会学からも、意外な収穫があったという。
「それまで、僕が音楽で生きていきたいというと、周りの大人たちはたいてい『そんなの上手くいくはずないじゃないか』って言うんです。僕としては『好きなんだからしょうがないじゃないか』って反論するしかなくて、悔しい思いをしていました。でも社会学で社会の構造とか物事の裏表を知り、論理的思考が身についてくると、徐々に自分の考えを言葉にすることができるようになってきた。自分の想いを100%言葉にはできなくても、最低限の言葉で語ることができるようになった。僕は音楽がやりたいんだって、それを口にすることで自分でも確認できたし、相手にしっかりと伝えられるようになった。それは大きかったです」
 20代を通じてゴスペルグループやソウル・ミュージックのコーラスグループの主要メンバーとして、各地のライブハウスや教会、米軍キャンプなど、さまざまな場所で活動を開始。一時は7つくらいのバンドやグループをかけ持ちしていたという。ときには人気ポップス歌手のコーラスやサイドボーカルとしてステージに立つこともあった。けれど、その最中にも、高柳の胸の内には、ファドというものへの強烈な想いが、少しずつ大きくなっていた。

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【撮影協力】
C.A.C.C.スネークピットジャパンhttp://www.uwf-snakepit.com/