この春、新型コロナの影響で、落語家としての活動はしばし中断。高座に上がる代わりに、オンラインで配信する機会が増えた。いつもなら客前でやるものを、たったひとりで話すのだ。
「正直、初めは抵抗がありました。やってみないとしょうがない、と思って、やってみたんですけどね。でも、(柳家)喬太郎師匠も言ってましたけど、一番やりづらいのは、目の前にお客さんがいても、そのお客さんがまったく反応してくれないというケースで(笑)。それに比べれば、いいのかな、と。噺によっては、お客さんと落語家と、目には見えなくても双方のアウンの呼吸で作って行くものもあるんです。こっちがしゃべって向こうが笑う、それだけなんですけど。それがないと、落語ってこんなに難しいのかと思いました。もう、稽古通りにやるしかないんです」
 その稽古を、ふだん、いったいどんなふうにしているか、というと。
「歩きながらとか、電車にのってる間に噺をさらうことが多いです。歩いているときや電車の揺れるタイミングって、落語のリズムに近いから、やりやすいんです。でも集中しだしちゃうとね、こう、右を向いたり左を見たり、たまに声が出てしまったりして、周りから見ると完全にアブナイ奴なんでしょうね。電車の中で私の周りだけ人が減っていきます(笑)。噺の中には喧嘩になって啖呵を切るような場面もありますし、『大工調べ』なんて噺はそこが聴かせどころですから、歩きながらそのクライマックスにさしかかって、向こうから自転車に乗ってきたオジサンと視線が合った瞬間に、私が『てやんでえ、べらぼうめ!』なんてやってると、喧嘩を売ってると思うんでしょうね。にらまれるんです。こっちは稽古してるだけなんで、心外なんです、はい」
 そんな稽古のかいあって、志う歌の江戸弁はカッコイイ。滑舌良くトントントントン、切れ味鋭い啖呵を聴くと、気分がすっとする。
「古典落語の口調が染みついてしまっているみたいです。ときどき、新作落語をやることもあるんですが、江戸弁なら噛まないのに、現代語になると噛んでしまう。違和感がハンパないんです。ウチの母親も、私が何かに怒ってまくしたてていると、笑うんですよ。なんで笑っているんだよ、って聞くと、『なんか、落語を聴いてるみたい』って。人の言うこと、聞いちゃいないんですよ、まったく(笑)」