髙橋貢は、京都出身。
「実家が、祖母の代からの美容室だったんです。父も母も叔母も美容師で、僕がその店を継げば3代目だった。中学高校と進むに従って、親は何も言いませんけど、後を継いで欲しいという親の思いがひしひしと伝わってくるんです」
 でも髙橋自身は、歌が大好き。
「中学2年くらいから、当時渡辺プロダクションがやっていた音楽学校大阪校の個人レッスンに通っていました。高校3年のときにはいろいろなオーディションを受けて、卒業したら〝ちょっとやってみますか?〟というお話もいただいていたんです。でも親には当然、反対されまして。それを蹴飛ばして出てくれば良かったんですけど、のほほんと育てられているので、障壁をかきわけかきわけ人生を切り拓く、という感じでは、まだなかったんですね」
 髙橋はこのとき、歌への情熱を封印したという。美容学校に通い、一年間のインターン時代を経て、京都市内の美容院に就職した。学歴は必要ないと、大学も中途退学。
「6年半、そこで働きました。途中、パリに短期留学もして、けっこう生意気だったと思います(笑)。いわゆるサロンの仕事が好きじゃなくて、その頃出始めたファッション誌を見ては、こういう仕事がしたいなって」
 80年代、巷にはファッション誌が次々と登場し、美意識も大きく変わった時代だ。
「ファッショングラビアを見ていると、そこにはカメラマン、スタイリスト、ヘアメイクというクレジットがあって、ああ、こういう世界があるんだ、そこに行きたい、と思うようになりました。an・anを見ていて〝わあ、カワイイ!〟って思うページには必ず、〈ヘア&メイク 新井克英〉とあって、〝これしかない!〟と思ったんです」
 新井克英氏といえば、ファッショングラビア黎明期から活躍。ファッション誌のスタッフに愛され、モデルや女優、タレントに愛され、めちゃくちゃ活躍していたレジェンドだ。
 髙橋は新井氏にアシスタント志望の履歴書を送ると、返事を待たずに上京。返事が来るまで、別の事務所でヘア&メイクとして活動を開始した。
「フロアでやる小規模のファッションショーのモデルさんのヘアとか、あとはヌードグラビアに出る女の子のヘア&メイクもやりました。エロいやつです(笑)。心の中で〝こんなのやりたいと思って東京に来たんじゃない!〟って思いつつ、生活があるからやらなきゃならない」
 ちょうど1年経った頃、ようやく新井氏から連絡があった。
「『面接替わりに、アシスタントしてみますか?』って。忘れもしません、青山の骨董通り、ハンティングワールドの前で集合して、ロケバスに乗り込みました。ブロンドのロングヘアの外人モデルさんで、本当に美しかった。『僕がやりたかったのは、これだ!』と思いました」