3 バルカン室内管弦楽団
柳澤寿男
- Magazine ID: 3942
- Posted: 2019.11.13
バルカン半島は遠い。ユーゴスラビアという国が崩壊した後、民族間の対立が激化して紛争が絶えない、という知識はあったものの、セルビア、コソボ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどなど、それぞれの名前がどういう国でどういう民族がいるのか、馴染みがない上に複雑すぎて、めまいがしそう。
「そうですね、日本はほとんど単一民族の国ですからね。しかも国境のない島国ですし。バルカン半島はクロアチア人、ボスニア人、セルビア人、アルバニア人、マケドニア人、ブルガリア人など、多民族がいろんな地続きの国に住んでいるんです。そして、その民族同士が必ずしも上手くいっていることばかりじゃないんですよ」
同じ国に住んでいると、民族ごとに利権争いが起こり、対抗し、そのまま行くと紛争になる。排除され追われた民族は国境を超えて難民となってしまう。あるいは息を潜めてその地に留まり、辛酸をなめる人もいる。
たとえば柳澤が住んでいたコソボも、住民の9割がアルバニア人で、1割がセルビア人。もともとは入り交じって暮らしていた人達が、民族ごとに分断され、今いる場所で暮らさざるを得ないのだ。
そんな中柳澤は、それらの人々が一緒に演奏するバルカン室内管弦楽団を作ろうと思いついた。まずは地元から、セルビア人とコソボのアルバニア人が一緒に演奏する場を作ろうと思ったのだ。やがていつかは、旧ユーゴスラビアの民族みんなが一緒に演奏することのできるオーケストラにしたいという、壮大なプランだ。
「それは、例えると、日本人と中国、韓国、北朝鮮、台湾の人たちが集まって竹島で演奏する、みたいなものかもしれません。難しいです。そう簡単じゃない。その場にいることさえ、大変だと思います」
柳澤が日本人で第三国の民族である、ということが、ここでは役に立った。そこからは多くの交渉があり、折衝があり、一歩一歩の歩みがあってバルカン室内管弦楽団は誕生した。第三国の、変わり者の日本人指揮者のアイデアは、当初苦笑交じりに受け取られ、やがて次第に浸透していった。国連や警察の協力も得て、柳澤は奇跡を起こしたのだ。
それにしても、かつてマケドニアで嫌な思いをしたはずの柳澤が、どうしてそのままバルカンに留まり、のみならず民族対立の真ん中で活動し続けているのだろう?
「生活があまりにも大変すぎたんです(笑)。停電はしょっちゅうで、断水もしょっちゅうです。電気のない生活は本当に大変なんです。日本から持参した大事な米を炊こうと思って、それが停電で台無しになると、切なかったです。寒いので冬は家の中でも息が白いんです、コートを着たままです。メールが途中で消えるのも日常茶飯事でした。1本のろうそくを囲んで楽団員みんなで身を寄せ合ってご飯を食べていると、至近距離だから大きな影が壁に映る。そんな生活をしていると、俺たち、仲良くやっていかなきゃしょうがない、みたいな気持ちになります。助け合おう、という気持ちになります」
バルカンに住む人々の遅刻癖や、やる気の無さにイライラした時代もあったけれど。
「あのマケドニアの失敗がなかったら、コソボでうまくいっていなかったと思います。コソボの人だって時間通りには来ないし、練習もしてこない。で、途中で気が付いたんですよ。じゃあこの地球上で、時間通りに人が集まってくる国はどのくらいあるんだろう?って。ほぼほぼ、ないんじゃないかなって。だとしたら、時間通りに来ないほうが常識なんじゃないだろうか。僕の感覚は常識じゃなかった。ダメじゃん、俺、と(笑)。日本のやり方でやろうとすると、うまくいかないんです。その土地の、その人たちのやり方でやっていかれるか、そういうところが勝負なんです」