コンクールで賞を獲れば、それでハクがついて指揮者になれる、というものではないらしい。
「最初のうちは、全然うまくいかないわけです。日本にいて、来る仕事に対しては、自分自身がこれでいいのか? と自問自答してしまうようなことばかりでした。そういう中でたまたま知り合いから、マケドニアの国立歌劇場でプッチーニのオペラ『トスカ』を振ってみないか、という話がありまして。マケドニアという国名はほとんど聞いたことがないし、いったいどこにあるのかも知らない。でもせっかく紹介されたので行ってみたんです。するとかなり良い演奏会になって、大成功を収めて、そのままマケドニアでやりませんか、と言われて、国立歌劇場の首席指揮者というのに2005年から就任しました」
 ラッキーな展開、のようにみえるけど。
「全然うまくいかないんです、これがまた。その理由は、文化の違い、ですね。リハーサルの時間になっても、楽団員が時間通りに来ない、練習してこない、約束は守らない。海外あるある、ですね(笑)。しかもみんなが集まると楽団員のひとり、オッサンが僕の立つべき指揮台に立って、演説を始めるんです。〝我々はこんな安い給料で働いていていいのか!〟って、それだけ練習時間が短くなるというのに・・・。リハ中の休憩も、10分と言えば20分戻ってこない。そのくせ終了時間はびしっと守ってさっさと帰る。演奏中も、手の空いている人は勝手におしゃべりしている(笑)。だから僕はイライラしてしまって、楽団員たちとケンカです。それが続いて、やがて国際問題にまで発展してしまった」
 ウィーンに駐在していた日本大使が、マケドニアの文化大臣に申し入れをする、という事態にまで発展してしまったとか。新聞もそれを報じて、大問題に。
「それで本当にイヤになってしまったんです。すると、その新聞を読んで国連の職員が同情してくれて、コソボにもオーケストラがあるから、そこで1回振ってみないかと誘ってくれました」
 次から次に、柳澤が困ったときには必ず味方が現れるようだ。
「コソボでは2007年にローマ条約から50周年記念の演奏会があって、そこでベートーヴェンの交響曲第七番を振って欲しいという話でした。そのとき知り合ったコソボ・フィルの音楽監督バキ・ヤシャリさんという人の存在が、僕のそれからを大きく左右することになるんです」
 当時コソボは、国連の暫定統治下。1999年にNATOの空爆によってコソボ紛争は終結したものの、民族間の対立は続いたまま。町には軍隊が常駐し、人々の住まいも断水や停電が日常的という悲惨な状況。紛争の火種はそのまま残り、一触即発の危険な状況は続いていたのだ。
「演奏会の前の日、バキさんが言うんです。〝柳澤さんには悪いけど、今戦争になったら、演奏会どころじゃない。俺は銃を持って闘いに行く〟って。僕の知っている人の中で銃を持って戦争に行くって言う人は初めてだったので、驚きました。そもそも戦争を知りませんから、僕は。そういう状況だと知らされてはいても、どこか対岸の火事のように感じていたんです」
 バキさんがそう言うのには、理由があった。コソボ紛争の最中、ある橋の側で、市民が乗ったバスがNATOの誤爆により被弾。乗っていた約50名中45人が亡くなった。その中にバキさんの知り合いが2名いて、ひとりは彼の奧さんの兄弟だったのだ。爆風で吹き飛ばされた兄の靴を拾って、奧さんは悲嘆にくれたという。怒りと哀しみと敵意が、バキさんの中には凝り固まっていたのだ。
 そして、演奏会当日。演奏が終わると、嵐のような拍手が観客席から柳澤を包み込んだ。
「客席最前列にずらっと座っていた軍人たちもめちゃくちゃ笑顔で、市民の皆さんもニコニコしながら拍手してくれて、すごくうれしかったです。そしてみんなが帰っていく中、バキさんが走り寄ってきて、涙ながらに言ってくれました。〝この間、演奏会どころじゃない、なんて言って悪かった。音楽を聴いて、気持ちが変わった。これからは人に優しく生きていきたいと思う〟って」
 それもきっと、音楽の力。
「そうだと思います。僕がバキさんに言葉で『そんなこと言っちゃいけないよ』って言っても、彼の気持ちは何も変わらなかったと思います。僕だって、つらい思いをした彼にそんなこと、言えなかったと思うし。でもやっぱり音楽で、彼の気持ちは変わった。それはすごい、うれしいことでした」
 そしてバキさんは、こうも言ったという。
『音楽に国境があってはいけないんだ』
 その言葉が、柳澤を次の行動へと導いた。