ハートビートで―― 大澤誉志幸
山下久美子&大澤誉志幸
- Magazine ID: 1602
- Posted: 2013.03.27
その後のソロアーティストとしての活躍からは想像もつかないが、大澤誉志幸さんはバンド解散後、裏方を2年近くやっていた。
「コーラスだけの仕事で、映画『戦国自衛隊』の『ジャイアント・シティ』というのを歌ったことがあったな。あとツービートが曲を出すというんで、ビートたけしさんの仮歌をうたったことも。たけしさんがぼくの歌を聴いて『もうこのままでいいじゃん』と言ってくださったりね(笑)」
同じ事務所には、山下久美子のほかに沢田研二さんがいた。
「沢田さんがマイクから一番遠くで歌って、その曲に、声がこもりがちな佐野くんが手前、銀次さん、オレ、という感じでコーラスをしたことがありました(笑)。今思えばすごいメンツだねえ」
その後、大澤さんは沢田さんに『晴れのちブルーボーイ』を楽曲提供して一緒に歌った。
やがて『そして僕は途方に暮れる』が大ヒット、ソロアーティストとして一躍脚光を浴びたのである。突然スケジュールは満タンになった。風疹になってもドーランを塗ってステージに立つというような日々。
「当時はテレビとかラジオの影響はすごかったからね。歌番組に出れば翌日、CDが何十万枚も売れた。でも、当時のぼくは20代前半でしょう。売れるってなんか違うなと思ったね。まずいな、という感じ。たとえば、ちょっとラーメン食いに行きたいと思っても『イメージが違いますから』とか言われちゃう。自分の楽曲のイメージと自分そのものが乖離してきちゃうんですよ。それがだんだん制御不能になってわけわかんなくなっちゃう」
あの頃は別の「大沢誉志幸」がいた。が、今は一人の大澤誉志幸として歌える。
「今は心臓のビートに近いテンポで歌える。『途方に暮れる』が120bpmくらいのテンポだったのかな。バラードが70~80bpmくらいでしょう。そこらあたりのテンポがいいんですよ。若い頃は160~180bpmでも平気だったけどね。たまにそういうロックを聴くと覚醒するけど」
生き方も変わってきた。
「残りの人生をどう楽しく生きるか、考えるようになってきましたね。年を重ねるとつらいことが増えるけど、大事なのは免疫力を失わず、どう笑って生きていくかじゃない。哀しい曲にも耐えられるようになる。ただ、若い頃と変わらないのは創造力なんだよね。こういう作品をつくってみたい、という新しい作品への思いは続いています」
一生懸命生きてきちんと年を重ねてきた大人の男性の良さ、が漂っている人だと思った。
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出演:山下久美子&大澤誉志幸
山下久美子は大分県生まれ。1980年にデビュー、『赤道小町ドキッ』など多くのヒット曲をもつ。独特の歌唱とリズミカルな動きでライブの女王とうたわれ、「総立ちの久美子」の異名をとる。2000年に双子を出産、音楽活動は緩やかに続けている。
大澤誉志幸は1957年東京都生まれ。81年にバンドデビューするが同年12月に解散。83年にソロ・デビューし、『そして僕は途方に暮れる』などのヒット曲を出す。沢田研二、吉川晃司らへの楽曲提供でもヒットを連発。99年3月に歌手活動を休止、02年に活動を本格開始。このとき名前を大澤誉志幸に改名。今年は二人のユニットで、3月25日にアルバム『&Friends』をリリース。4~5月にコンサート活動も行う。
http://www.teichiku.co.jp/artist/yamashita-ohsawa/ -
取材・文:森 綾
大阪市生まれ。スポニチ大阪文化部記者、FM802開局時の編成部員を経て、92年に上京後、現在に至るまで1500人以上の有名人のインタビューを手がける。自著には『マルイチ』(マガジンハウス)、『キティの涙』(集英社)(台湾版は『KITTY的眼涙』布克文化)など、女性の生き方についてのノンフィクション、エッセイが多い。タレント本のプロデュースも多く、ゲッターズ飯田の『ボーダーを着る女は95%モテない』『チョココロネが好きな女は95%エロい』(マガジンハウス)がヒット中。
ブログ「森綾のおとなあやや日記」 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810
撮影:萩庭桂太