ロシアでの試練
アリス=紗良・オット
- Magazine ID: 1597
- Posted: 2012.10.17
アリス=紗良・オットの新作『PICTURES』の「展覧会の絵」は、なぜあれほどまでに集中を感じる作品になったのだろうか――。
――ライヴレコーディングは順調だった?
「いえ。人生は挑戦だとよく言うけれど、『PICTURES』のライヴレコーディングで訪れた白夜祭のサンクトペテルブルクでは、まさしく挑戦の連続でした」
――「展覧会の絵」の演奏からはすごい集中力を感じるけれど、このロシアの名曲を、ドイツ人のアリスが、ロシアで、ロシア人の前で演奏する緊張感なのかな?
「うん。それもあります。ロシアの人は、音楽でも、文学でも、自分たちの国の文化にとても誇りを持っていますから。そういう民族の名曲を他民族の私が弾くのはリスクが大きいですね。それに、ロシア人は熱情的……あっ、“熱情的”でいいんでしたっけ? 日本語で。情熱的かな」
――「情熱的」のほうが一般的だけど、「熱情的」でも伝わりますよ。「熱情的」のほうが、特別感があるかも
「そうですかあ。でも、やっぱり“情熱的”と書いてください(笑)」
――はい。では「ロシア人は情熱的」と……(笑)。
「お願いします(笑)。でね、ロシア人が情熱的なのは喜ばしいんですけれど、同時に適当!」
――適当?
「はい。適当なんです。時間は守らない。リハーサル部屋のドアに入室禁止の張り紙をしても10分おきにお掃除のおばさんが入ってくる。ピアノの調律はできていない」
――それじゃあ、レコーディングにならないじゃない。
「そうなんですよ。ピアノは、最初、ドイツからスタインウェイを持ち込もうとしたんですけれど、スタインウェイに断られた。ロシアのホールに貸すと返却されないことが多いんですって」
――スタインウェイは1台何千万円もしますよね?
「します! だから、返却されないと困るといわれました」
――で、ピアノはどうしたの?
「ドイツのスタインウェイの優秀な調律師の人に同行してもらって、ホールにあるピアノを調律してもらいました。でも、管理が悪いピアノなので、30分弾くと、音が狂うの」
――しかも、10分おきにお掃除のおばちゃんが入ってくると。
「そう!」
――「入室禁止」の張り紙、ドイツ語で書いたのではなく?
「ロシア語ですよ。でも、張り紙を読む習慣がないんですって」
――みんな、悪気はない?
「まったく。いい人たちなんです。だから、文句も言えません」
――集中できないですねえー。
「できないですよおー! しかも白夜なので、1日中明るくて、身体の感覚が狂って、眠れません」
――いつになっても夜が来ない?
「そうなんです。眠っても、1時間で目覚めてしまいます。だから、本番の日までにぐったりと疲れ果ててしまいました」
――それなのに、なんでこんなに集中力を感じる「展覧会の絵」になったのでしょう?
「ロシア入りしてからはつらいことばかりだったから、本番の日はすべてが素晴らしく感じられたからでしょう」
――なるほど。それで研ぎ澄まされた。
「自分でも体験したことがないくらいの集中度でした。私、ステージではすごく耳がいいんですよ」
――そりゃあ、そうでしょう。音楽家なのだから。
「音楽的な耳だけでなくて、ステージにいると、なぜか聴力が増すんです。客席2000人、3000人規模のホールでも、お客さん1人1人の会話や、息遣いや、プログラムをめくる音がぜーんぶ聴こえるんです」
――それは、気になっちゃいますね。
「そうなんです。でも、今回の録音では客席の音が聴こえなかった。集中度が高かったんだと思います。その日までのつらさがあったからかもしれませんが、一気に集中できました」
――その後に演奏した「シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番」は一転して楽しげでしたね。
「ダンスみたいなシューベルトでしょ?」
――まさしく踊るような演奏でした。
「『展覧会の絵』がものすごく盛り上がったので、緊張から一気に解き放たれて、ああいうダンスのような演奏になったんですよ」
――「展覧会の絵」と「ピアノ・ソナタ第17番」は別のピアニストの演奏みたいです。
「でしょ! シューベルトは自分の国の音楽家ですしね」
音楽とはまさしく生き物なのです。
『PICTURES』 2012.10.17発売
限定盤 SHM-CD(+DVD) 3,300円(税込)UCCG-9992
通常盤 SHM-CD 2,800円(税込) UCCG-1589
http://www.universal-music.co.jp/alice-sara-ott/discography/
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出演:アリス=紗良・オット
1988年ドイツ、ミュンヘン生まれ。父親はドイツ人。母親は日本人。4歳でピアノを始め、ヨーロッパの数多くのコンクールで優勝する。2008年ドイツ・グラモフォンから最初の作品集『リスト:超絶技巧練習曲集』をリリース。2作目の『ショパン:ワルツ集』はドイツとアメリカで、クラシックiTunesチャートで1位になる。 最新作は、7月3日にロシア、サンクトベテルブルクの「白夜祭」の夜に「ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》」と「シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番」をライヴ収録した『PICTURES』(10月17日発売。ユニバーサル ミュージック)。
10月23日からは日本ツアーをスタート。10月29日(月)NHKホールでは、ロリン・マゼール指揮NHK交響楽団と「グリーグ:ピアノ協奏曲」を共演。詳しい日程はこちらユニバーサルミュージック オフィシャルサイト
http://www.universal-music.co.jp/alice-sara-ott -
取材・文:神舘和典
1962年東京都出身。音楽を中心に書籍や雑誌のコラムを執筆。ミュージシャンのインタビューは年間約70本。コンサート取材は年間約80本。1998年~2000年はニューヨークを拠点にその当時生きていたジャズミュージシャンのほとんどにインタビューを行った。『ジャズの鉄板50枚+α』『音楽ライターが、書けなかった話』(以上新潮新書)、『25人の偉大なジャズメンが語る名盤・名言・名演奏』(幻冬舎新書)、『上原ひろみ サマーレインの彼方』(幻冬舎文庫)など著書多数。
新潮新書 http://www.shinchosha.co.jp/writer/1456/
幻冬舎新書 http://www.gentosha.co.jp/book/b4920.html
幻冬舎文庫 http://www.gentosha.co.jp/book/b4157.html
撮影:萩庭桂太