もう10年近く前になるが、東京の恵比寿でドイツから来た女の子をナンパしたことがある。22歳の上智大学への留学生だ。彼女も父親がドイツ人で母親が日本人だった。

 最初のデートは恵比寿ガーデンヒルズの奥にあるウェスティンホテル東京のランチだった。彼女からウェスティンのランチブッフェに連れて行ってほしい、とリクエストされたのだ。

「私はとっても大食いだから、日本では食べ放題のお店にしか行かれないの。でも、食べ放題でおいしいお店は少ないでしょ。だから、おいしいものを好きなだけ食べてみたい」

 そう言われた。

 そして、実際に一緒に食事をして、仰天した。大皿3つそれぞれに、肉、魚、野菜を山盛りに盛った。店のスタッフも驚いていた。

「本当に食べられるの?」

 心配になってたずねた。彼女はどこからどう見ても細身なのだ。しかし、にっこりとうなずいて、すべて平らげた。

 これは序章に過ぎなかった。再び同じ量の食べ物を集めてきて、平らげた。見ているこちらが、具合が悪くなってきた。デザートのスイーツも20個くらい食べた。自分が見ている風景が現実とは思えなかった。それから数日して、2度目のデートで、彼女は「お寿司が食べたい」と言った。

 恐怖を感じた。

「ふつうのお寿司屋さんに連れて行ってとは言いません。回転寿司でいいから行きたい」

 ウェスティンで恐ろしい光景を見ていたので、全皿130円の天下寿司へ行った。そこで、彼女は100皿を平らげた。回転寿司で1人分1万3000円も支払ったのは最初で最後だ。

 その女性は、羊羹は切らずに1本まるごと“バナナ食い”をするという。父親も同じで、日本人の母親は「あなたたちを見ていると気持ち悪くなるから」と食事の時間は必ず自室に避難したという。

「ドイツ人は全員大食い」

 彼女は何度も言った。

 前置きが長くなったが、本当にドイツ人は誰もが大食いなのか? 見た目麗しくスマートなピアニストのアリスもなのか? どうしても聞いてみたかった。

「そうかもしれません……」

 それまでの音楽の話とは別人のように小さな声で、アリスは答えた。

――アリスも回転寿司は100皿いけるの?

「今は無理かな……。でも、12歳で母親の実家の松戸に遊びに来て、数カ月滞在したんですけれど、あの時は、確か、100皿以上食べていました。そのナンパしたドイツの女の子の食欲を見て、嫌いになりましたか?」

――嫌いにはならなかったけれど、お付き合いは難しいとは思いました。

だって、食事中会話する間もなかったから。100皿って、200貫ですからねえ。

「ドイツ人は食事の時は遠慮しないんです」

――お父さんも食欲旺盛?

「すごいです。目の前にあるものは全部食べます。子どもの頃、お父さんと食事をするのはいやでした。テーブルの上の肉、ぜんぶ食べちゃうから。私と妹が食べる肉がなくなっちゃう」

――娘にも気をつかわない?

「つかいません」

――じゃあ、ドイツ人の男の子が女の子とデートしても気をつかわない?

「1回目は気をつかうかも」

――2回目はだめ?

「食べることに関してはだめです。食べ始めると、まわりが見えなくなります。父もそうでした」

――でも、アリスは日本に演奏に来て食事足りなくない?

「最近は大丈夫かな。でも、食事をしてホテルに帰ってからよく1人でコンビニへ買い出しに行きますよ。コンビニのおにぎり、大好きです。紅鮭と昆布とシーチキンマヨネーズが大好物。日本はどこでもホテルの近くにコンビニがあって便利。特に東京のホテルは窓からの夜景はきれいだし、トイレの便座は暖かいし、快適です」

――日本のトイレは好き?

「暖かいのは気持ちいいですね」

――シャワートイレは?

「あれは、私、ダメ! 気持ち悪い。それから、便器のふたが自動的に開くのもいらない。動きが遅いから、待てなくて、自分の手で強引に開けてしまいます(笑)」

 そのアリス=紗良・オット、10月17日の『PICTURES』リリースに続き、日本ツアーが10月23日の札幌からスタートする。10都市10公演。

 曲は「ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》」と「シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番」。それに加えて、10月29日には、東京渋谷のNHKホールで、「グリーグ:ピアノ協奏曲」をロリン・マゼール指揮NHK交響楽団と共演する。

『PICTURES』 2012.10.17発売

限定盤 SHM-CD(+DVD) 3,300円(税込)UCCG-9992
通常盤 SHM-CD 2,800円(税込) UCCG-1589
http://www.universal-music.co.jp/alice-sara-ott/discography/

  • 出演:アリス=紗良・オット

    1988年ドイツ、ミュンヘン生まれ。父親はドイツ人。母親は日本人。4歳でピアノを始め、ヨーロッパの数多くのコンクールで優勝する。2008年ドイツ・グラモフォンから最初の作品集『リスト:超絶技巧練習曲集』をリリース。2作目の『ショパン:ワルツ集』はドイツとアメリカで、クラシックiTunesチャートで1位になる。 最新作は、7月3日にロシア、サンクトベテルブルクの「白夜祭」の夜に「ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》」と「シューベルト:ピアノ・ソナタ第17番」をライヴ収録した『PICTURES』(10月17日発売。ユニバーサル ミュージック)。
    10月23日からは日本ツアーをスタート。10月29日(月)NHKホールでは、ロリン・マゼール指揮NHK交響楽団と「グリーグ:ピアノ協奏曲」を共演。詳しい日程はこちら

    ユニバーサルミュージック オフィシャルサイト
    http://www.universal-music.co.jp/alice-sara-ott

  • 取材・文:神舘和典

    1962年東京都出身。音楽を中心に書籍や雑誌のコラムを執筆。ミュージシャンのインタビューは年間約70本。コンサート取材は年間約80本。1998年~2000年はニューヨークを拠点にその当時生きていたジャズミュージシャンのほとんどにインタビューを行った。『ジャズの鉄板50枚+α』『音楽ライターが、書けなかった話』(以上新潮新書)、『25人の偉大なジャズメンが語る名盤・名言・名演奏』(幻冬舎新書)、『上原ひろみ サマーレインの彼方』(幻冬舎文庫)など著書多数。

    新潮新書 http://www.shinchosha.co.jp/writer/1456/
    幻冬舎新書 http://www.gentosha.co.jp/book/b4920.html
    幻冬舎文庫 http://www.gentosha.co.jp/book/b4157.html

撮影:萩庭桂太