徘徊の意味
北原佐和子
- Magazine ID: 1539
- Posted: 2013.07.29

久しぶりにYOUR EYES ONLYの原稿を書かせていただく。実は私事ながら11年ぶりに長いお休みをいただいていたのである。
いやしかし、今週ご登場いただく北原佐和子さんのお話に少し関係のある事件は、そのちょっと前に起こった。とにもかくにも、まずそれについて書きたい。
私は都内にある古いマンションに住んでいて、立地の割に家賃も安く大変気に入っている。しかし、ある日、事件は起こった。
ピピ、ピンポーン。ピンポーン。……
なんとなく不穏な鳴り方にちょっと覗き穴を見ると、白髪の上品なおばあさんが立っている。私はなんのためらいも疑いもなく、ドアを開けた。きれいなおばあさんが立っていた。花柄のブラウスに真珠のネックレス。黒いスカート。お化粧もきちんとしている。
「すみません。あの、私、お隣りなんですけどね。うちのトモコちゃんが中から鍵をかけて寝てしまったみたいで。ゴミを捨てに外に出たら入れなくなってしまいましたの」
私は「あら、それはお困りでしょう」と外に出て、お隣に向かって「トモコさーん、トモコさーん」と呼んでみた。応答なし。
その隙に「ちょっと失礼します」と言うが否や、おばあさんはするりと私のうちへ上がり込んだのであった。その行動は不審だとは思わせないほどの自然さと静かさが漂っていた。
おばあさんは私の部屋を見回し、ため息をついた。
「ずいぶん変わってしまったわね。ここで私の主人が歯医者をしておりましたの。ここと隣りはつながっていますでしょう」
「は……。いいえ、つながっていませんよ」
私が否定すると、おばあさんは首を振る。私はちょっとおかしいな、と思いながらも、自分は貸借人であるので、昔はそうだったのかも、と思い直した。とにかくトモコさんは寝てしまっているらしいから、ベランダから呼ぶ。
「……ほんと困りましたね。トモコさーん、トモコさーん」
「起きないわねえ。困ったわ」
そのとき、私はふとおばあさんのことをまじまじと見た。そして、ハッとした。
花柄のブラウスだと思っていたが、彼女が着ていたのは、パジャマの上着だったのである。パジャマに真珠のネックレス。途端に私は怖くなった。そして脳裏にその言葉を恐る恐る確かめた。
おばあさん、認知症かも……。
困ったですねと言いながらドアの外へとおばあさんを誘うと、隣りで寝ていたはずの「トモコさん」ならぬまた別のおばあさんが扉を開け「奥さんのおうちはこの下の階ですよ」と言った。
おばあさんは口の中でモゴモゴ言いながら、もう誰の顔も見ないで、すたすたと階段で降りていったのだった。
その後も、おばあさんは夕方になると我が家の鍵穴にがちゃがちゃと自分の鍵を突っ込むのであるが、開かないと諦めると、また帰っていかれる。最初は気味が悪かったが、だんだん慣れてしまった。時折、介護人らしき女性と一緒にいらっしゃることもあるので、まあ大事に至ることはないだろう。……
……その話をすると、北原佐和子さんは終始にこにこと微笑んでいた。そしてこう言った。
「確かに認知症で徘徊される方というのは、あまりにも静かにいなくなってしまわれるんですよね。でも周囲から見れば徘徊ですが、当人にしてみれば何らかの理由があるから歩いていくんです。歩いていることに何か理由があったり、何かを探していたりするのかもしれないんです」
北原さんは女優でありながら、ヘルパー2級の資格をもって現場でも働く、立派な介護士でもあるのである。
私は彼女の言葉になんとなくおばあさんの行動が腑に落ちたのであった。
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出演:北原佐和子
1964年埼玉県生まれ。モデル、歌手から始め、人気アイドルユニット、パンジーの一員でもあった。その後、本格的に女優に。『水戸黄門』『大岡越前』といった時代劇、サスペンスドラマなど多岐にわたって出演を続ける。その一方で、ヘルパー2級の資格を取得、介護士としても現場で働く。そこで培う経験から現在は講演活動も行っている。
公式ブログ http://ameblo.jp/kitakitasawako/
所属「スクロール」 http://www.scroll2003.com/sawako-kitahara/
講演の問い合わせ先 http://casting.horipro.co.jp/ -
取材・文:森 綾
1964年大阪生まれ。ラジオDJ、スポーツニッポン文化部記者、FM802編成部を経て、92年に上京、フリーランスに。雑誌、新聞を中心に発表した2000人以上のインタビュー歴をもち、構成したタレント本多数。自著には女性の生き方をテーマにしたものが多く『キティの涙』(集英社)、『マルイチ』(マガジンハウス)、『大阪の女はえらい』(光文社知恵の森文庫)、映画『音楽人』の原作など。
ブログ『森綾のおとなあやや日記』 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810
撮影:萩庭桂太