私が加藤登紀子さんに初めて出会ったのは今から28年前くらいのことだった。当時の私は就職活動にことごとく失敗し、わずかながら残ったナレーションや放送タレントの仕事をこなしながら、スポニチ大阪で「ヤング情報」という小さな無署名のコラムを書かせてもらっていた。

 この仕事を始めたのは、運命のいたずらというしかない。裁判所の傍聴席を取るバイトで行列していた時に、後ろにいたスポニチの文化部長のエダさんから声をかけられたのがきっかけだった。

 コラムは100字詰め原稿用紙に6枚だったが、当時は自宅にファックスもなく、原稿を手書きで書き上げると毎回、恭しく持参していた。

 その頃の新聞社はまるで工場みたいなところで、野郎ばかり100人くらいがひしめき合っている編集部の入り口に立つと、一番奥にある文化部はタバコの煙でかすんでいた。本当の話である。

 その日も担当デスクに「だいたい、新聞原稿というものはだね……」とさんざんお説教されて帰ろうとすると、エダさんが「おーい。おときさんが来てるから茶でも行こう」と声をかけてくださった。よくわからないまま、新聞社の裏にある「浦」という喫茶店について行くと、なんとそこに加藤登紀子さんとマネージャーさんが座っていたのだった。

 別に取材でもなんでもなく、登紀子さんとエダさんは音楽に関する世間話をしていた。エダさんは「美空ひばりと加藤登紀子は戦後日本の2大アイドルであり、対極である」という持論を展開していたが、登紀子さんは「対極ではなくて根っこは同じ」というようなことをおっしゃっていた気がする。

 私は一言も口をはさむことができず、ただただ、固まっていた。有名人と言われるような人が目の前で自分と同じコーヒーをすすって本心で語っているのを聴いて、味わったことのない興奮を覚えていたのだった。

 そしてこう思った。私もいつか、こんなふうに歌い手の人たちと対等に話し合えるようになり、彼らが本当に訴えたいことを引き出せるような人間になりたいなあ、こんな仕事がしたいなあ、と。

 その後、加藤登紀子さんとは、FM802というラジオ局で働いていたころや、フリーのライターになってから、何度かお仕事をすることになったのだが、そのときの話を登紀子さんにしても、ご本人は「覚えていないわ」と微笑まれるばかりなのであった。

  • 出演:加藤登紀子

    1943年、旧満州ハルビン生まれ。終戦後帰国し、京都で育つ。東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し、翌年プロデビュー。1971年『知床旅情』が大ヒットし、人気シンガーとなるが、72年に当時学生活動家だった藤本敏夫と獄中結婚して世間を驚かせる。3人の娘を育てつつ、数々のヒット曲を世に送り、映画『居酒屋兆治』などでは女優としても活躍。環境問題や親善大使など活動は多岐に渡り、世界各国を歌い歩く。2013年7月には恒例のBunkamura 等々、各地でのコンサートが決まっている。4月1日、ニューシングル『過ぎし日のラブレター』発売。
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  • 取材・文:森 綾

    大阪市生まれ。スポニチ大阪文化部記者、FM802開局時の編成部員を経て、92年に上京後、現在に至るまで1500人以上の有名人のインタビューを手がける。自著には『マルイチ』(マガジンハウス)、『キティの涙』(集英社)(台湾版は『KITTY的眼涙』布克文化)など、女性の生き方についてのノンフィクション、エッセイが多い。タレント本のプロデュースも多く、ゲッターズ飯田の『ボーダーを着る女は95%モテない』『チョココロネが好きな女は95%エロい』(マガジンハウス)がヒット中。
    ブログ「森綾のおとなあやや日記」 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810

撮影:萩庭桂太