ギターを弾こうにも山下(達郎)くんと村松(邦男)くんがいる。

「女のコはピアノを弾くほうがいいよ」と勧められ、大貫妙子さんは、ピアノを練習することにした。

「小学生の頃は習ってはいましたけど、その時はピアノを持っていなかったし、譜面は読めるがコードと鍵盤の関係が解らず、仕方なしにテーブルにピアノの鍵盤を描いて、C、F、Gと指で覚えたんですよ。紙のピアノですからね、音の出るピアノがある道玄坂の貸しスタジオを借りて、練習したんです。涙ぐましいよね(笑)」

 日本のポップスが商業音楽にはなっていない時代。日本では学生運動の流れからフォークが流行、70年初頭はロックとブルースが主流であった。その流れとは別に存在する「はっぴいえんど」がいた。

「私たちの先輩にはっぴいえんどの方たちがいて、私たちの世代はその子供たちと言ってもいいと思います。日本語をロックにのせてかっこいいというのは彼らが最初で、その影響は多大だった。シュガー・ベイブはポップスのバンドだったので当時はロックフェスに出ると『帰れ』とか酒瓶が飛んできた。『軟弱や~~!』とか言われて(笑)」

 達郎さんと昔の話をすると、彼はよくいろいろなことを覚えてるんですよね。私はほとんど忘れてますが。

 やっぱり、彼はフロントで歌っていたので矢面に立っていたようなものですから。支持してくれたファンの方もいらっしゃいましたが、いつも『あまり、いい思い出はないねぇ』って笑うんです」

 それでもシュガー・ベイブのメンバーは自分たちの音楽を愛し通した。

「私たちはポップスが大好きでしたしね。……あれから40年。そんなに経ったのか、っていう感じ」

 ことさら40周年を強調したくない、と大貫さんは恥ずかしそうに言う。

「40周年だから新曲で記念のアルバムを作ろうとかいう気持ちは特にないです。東日本大震災が起き、気持ちがフラットになってしまいましたし。ずっと続くと思っていたものも、ある日突然消えてしまう。それを目の当たりにしたんですから。多分あの日を境に多くの人の価値感が分かれてしまった。原発のことも政治のありかたも、このままでいいはずはないと思う人と、自分には関係ないと享楽に身をまかせる人と。人がどうであれこれからの自分はどの道を行くのかが多分ためされる、と私は思っているんです。大切なものを共有あるいは共感しあえる人にとって、私の音楽が必要とあれば、これからも書いていこうと思っていますし、新しいアルバムをつくることだけが仕事ではないので、歌手として現在も歌っていますし。それは続けてくと思います」

 メッセージソングを歌わない彼女の、強烈なメッセージを聴いた気がした。

 大貫妙子という人の純粋な言葉の力だった。

撮影協力:神奈川県立近代美術館 葉山

10月14日(月・祝)まで、葉山館開館10周年記念展
「戦争/美術 1940-1950 モダニズムの連鎖と変容」開催中
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2013/senso/

  • 出演:大貫妙子

    1953年東京都生まれ。特攻隊だった父親をもつ家庭に育ち、1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。76年からソロ活動を開始。多くのヒット曲を作詞作曲し、98年、映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞受賞。音楽生活40周年となる今年は、10月末に新潮社からエッセイ『私の暮らしかた』を発売。11月には鎌倉、名古屋、大阪などでライブを行い、トリビュートアルバムも発売される。
    http://onukitaeko.jp

  • 取材・文:森 綾

    1964年大阪生まれ。ラジオDJ、スポーツニッポン文化部記者、FM802編成部を経て、92年に上京、フリーランスに。雑誌、新聞を中心に発表した2000人以上のインタビュー歴をもち、構成したタレント本多数。自著には女性の生き方をテーマにしたものが多く『キティの涙』(集英社)、『マルイチ』(マガジンハウス)、『大阪の女はえらい』(光文社知恵の森文庫)、映画『音楽人』の原作など。
    ブログ『森綾のおとなあやや日記』 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810

ヘアメイク:茂手山貴子 http://moteyama.com/
撮影:萩庭桂太