定点にある、価値観。揺るがないものをもつ大貫さんは、音楽に対しても一貫したものをもっている。まずは音楽が大好きだったということだろう。

「物心ついたらステレオから離れない子どもでした。ピアノも習わせてもらったけど、いろいろあって家にピアノはなくなっちゃって。中学のときにギターを買ってもらい、フォークバンドを作っていました。音楽をしている時だけがほんとに楽しかったけれど、進路を決める頃になると、それを一生の仕事にできるわけはないなと思いましたし。人と交流するのも得意ではなかったので、伝統工芸の道に進もうと思ったんです。一生できる仕事がいいと。それからはギターをキャンバスに持ち替え美大に入るための学校に通い、手が挙がらなくなるほどデッサン漬けの日々でした」

 腰までのロングヘア、真っ黒なマキシ。ヤマハのスタジオで男のコが声をかけた。「音楽、やってるんですか」。それがきっかけで19歳でバンドを組んだ。が、当時はフォークやメッセージソング全盛期。「赤い鳥のような歌をうたってほしい」とレコード会社に言われる。赤い鳥は、日本のフォークバンドの原型ともいえるグループ。各地の子守唄などの伝承歌からソフトロックまで演奏して人気を得ていた。74年の解散後、メンバーはそれぞれ、紙ふうせん、ハイ・ファイ・セットを結成する。

「赤い鳥の『竹田の子守歌』は好きな曲でしたが、当時は洋楽しか聴いていなかったので。あまり気がのらなかったですね。そんなとき音楽プロデューサーとして矢野誠さんが現れ『君、このバンド合わないからめたほうがいいんじゃない』と言われたんです。自分の曲を聴いてもらったら『君、オリジナリティがあるよ』と」

 当時、若いミュージシャンが集まっていた四谷の「ディスク・チャート」という店を紹介された。「君が好きな音楽をカバーしている人がいる」とのことだった。

「そこで、みんなが面白がって私のデモテープを作り、デビューさせようってことになったんです。何回目かの日に明け方までやっていたとき、時々来てただ眺めていた山下くんが突然『ギター借りていい?』と弾き出した。何、この人、素敵。歌上手!って(笑)それから話をするようになりました」

 山下くん、とは、山下達郎だったのである。

  • 出演:大貫妙子

    1953年東京都生まれ。特攻隊だった父親をもつ家庭に育ち、1973年、山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。76年からソロ活動を開始。多くのヒット曲を作詞作曲し、98年、映画『東京日和』で第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞受賞。音楽生活40周年となる今年は、10月末に新潮社からエッセイ『私の暮らしかた』を発売。11月には鎌倉、名古屋、大阪などでライブを行い、トリビュートアルバムも発売される。
    http://onukitaeko.jp

  • 取材・文:森 綾

    1964年大阪生まれ。ラジオDJ、スポーツニッポン文化部記者、FM802編成部を経て、92年に上京、フリーランスに。雑誌、新聞を中心に発表した2000人以上のインタビュー歴をもち、構成したタレント本多数。自著には女性の生き方をテーマにしたものが多く『キティの涙』(集英社)、『マルイチ』(マガジンハウス)、『大阪の女はえらい』(光文社知恵の森文庫)、映画『音楽人』の原作など。
    ブログ『森綾のおとなあやや日記』 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810

ヘアメイク:茂手山貴子 http://moteyama.com/
撮影:萩庭桂太