耳が聴こえなくなるまで
DJ OSSHY
- Magazine ID: 1284
- Posted: 2013.06.28
17歳からのDJ生活とはどのようなものだったのだろう。
「高校一年生でした。先輩にディスコに連れて行かれたのが最初です。そうしたら、曲がノンストップで流れているんですよね。ぼくはテープになんとか隙間なく曲を録音しようとしているのに、なんだこれは、と。音楽にひかれたのがきっかけでした。それで、一人で行くようになったんです」
ナンパよりも音楽目的だったOSSHYは、DJテーブルの前に張り付いて閉店まで過ごした。
「週5日は通ったかな。1~2カ月後にチーフDJから『おまえ、よっぽど興味あるんだな』と声をかけてもらって、空きがある店を紹介してもらえたんです。見習いとして入ったのがCANDY CANDYという店でした。入ってみたら、ものすごいタテ社会。職人の世界でした。まかない飯と交通費だけで1年間は選曲ノートをつけるのと、照明、掃除担当。だけどぼくは小1から8年間、剣道をやって都大会で優勝したという経験があって、自慢じゃないけど忍耐力だけはあるんです。だからブースの下でばんばん蹴られても、厳しいとは感じなかったですね」
1年半くらい経った頃、先輩に代わって開店時の19時から1時間の時間をもらった。ところがそこで大失敗を経験する。
「お客をなんとか盛り上げなければというプレッシャーで、普通は22時くらいからかけるような大ネタの曲をバンバンかけちゃった。後で選曲ノートを見た先輩は真っ青ですよ。なんだこれはっと、さんざん叱られましたね」
大学卒業後、広告代理店に入り、その後FM横浜にも社員として12年在籍した。その間も、ディスコDJは辞めなかった。
「会社も理解してくれてありがたかったです。でも、だんだん、ぼくにとって一番大事で楽しいのは、ディスコDJなんだと思うようになったんです」
今は父親の興した会社の社長でもあるが、DJとしての顔がメインだ。
「死ぬ直前までずっと現場に居続けたい。目が多少見えなくなるのは、最初から暗闇の作業だからそんなにたいしたことじゃない。むしろ、耳が聴こえなくなるまでやりたいです」
今日もきちんとしたスーツやシャツ姿で、レコードを回す。趣味はほとんどない。
「時間があるときは、ドラッグストアか100均に行くくらい(笑)」
日本一真面目で地味なディスコDJが、東京の華やかな夜を支え続けている。
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出演:DJ OSSHY
1965年生まれ。立教高校在学中の1982年から渋谷「キャンディ・キャンディ」でDJデビュー。アメリカ留学後、伝説のディスコ「キサナドゥ」「ナパーナ」などでメインDJ として活躍。昨年DJ生活30周年を迎え、現在「Dynasty Tokyo」などでディスコイベントを企画主宰し、人気を集めている。現在「レディオ・ディスコ」(インターFM)、「ディスコ・トレイン」(TOKYO MX)テレビのレギュラー番組を持つ。本名・押阪雅彦。
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http://www.so-pro.co.jp/talent/profile_132.html -
取材・文:森 綾
大阪市生まれ。スポニチ大阪文化部記者、FM802開局時の編成部員を経て、92年に上京後、現在に至るまで1500人以上の有名人のインタビューを手がける。自著には『マルイチ』(マガジンハウス)、『キティの涙』(集英社)(台湾版は『KITTY的眼涙』布克文化)など、女性の生き方についてのノンフィクション、エッセイが多い。タレント本のプロデュースも多く、ゲッターズ飯田の『ボーダーを着る女は95%モテない』『チョココロネが好きな女は95%エロい』(マガジンハウス)がヒット中。
ブログ「森綾のおとなあやや日記」 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810
撮影:萩庭桂太