贅沢なことに、今回、YOUR EYES ONLY撮影のために、千里さんはほぼまる1日、付き合ってくれることになった。なんと、テレビのワイドショーの取材を断って、YOUR EYES ONLYを選んでくれたのだという。

 千里さん、ダニエル、担当のM氏、萩庭桂太、私の5人は、神楽坂で待ち合わせた。この5人は全員、見た目はきちんとした中年であるが、心は未成年であることをにおわせていた。我々はおとなの遠足のように、わいわいと山手線に乗ったのだった。

 知りたいことだらけなので、何を聴いてもインタビューになってしまう。彼は2007年、日本での活動をすべて休止した。予定されていた年末のコンサートも中止、ファンクラブも解散、それまでのすべてを捨てる形でニューヨークのニュースクールというジャズの専門大学に入学したのである。

「90年の初め頃に少しだけニューヨークに住んだことがあって、そのとき、いつかニュースクールに通いたいなあと思ったんです。音楽も役者も司会もと、いい仕事をさせてもらい続けてきてたんですけど、本当にやりたいのはジャズなんじゃないかという思いはありました。十何年前から心の片隅でアラートがチカチカしていた。それを払いのけながらやっていたけど、今回、スクールに合格して、これを逃しちゃいけないと本能的に思ったんです」

 周りの幾人かの人たちだけと話し、決断したという。

「お世話になった人たちに挨拶もできず申し訳なかったです。1月から始まる学校で全力で学ぶために、環境を整える時間も必要だったので、あたふた渡米しました」

 TOEICの点数も学校に受かるだけのものだったし、英語はしゃべれるつもりだった。

「ところが住んでみると大変でね。世代の言葉、地域の言葉、ジャズの言葉、学校の生徒の言葉……。ニュアンスはおろか意味まで全く違うことがあったり。たとえば『I’m down』とジャズの人たちがよく言うので、気分が落ちたのかと思って、大丈夫ですか? と返していたら、それは『I’m ready』、準備OKだよ、の意味だったんです。2年間くらいはそんなちんぷんかんぷんなこともしょっちゅうありました」

 学校に通うのだから、もちろん、4年間の収入はなくなる。蓄えはあっただろうけれど、その先、成功するのか否かもわからない。

「けっこう凝って家具なんかも集めたりしていたけど、人にあげたり処分したりして。でもね、全部捨てたら、心にスペースができました。NYに住み始めて、ルームシェアしていた人と、IKEAで5万円のソファーを割り勘で買いましたよ」

 生活のすべてを変える。すべてを捨てる。その決断を47歳の彼がした。情熱とは、怖いものだ。

「今、思うのは、あの頃、自分のエネルギーをどうしていいのかわからなかったんだなということです。ポップスに向き合うままだと、そのエネルギーがだだ漏れ状態になっていった気がするんです」

 そんな彼が、東京で一番行きたいと言った場所は明治神宮だった。

  • 出演:大江千里

    1960年、大阪府生まれ。83年にシンガーソングライターとしてデビューし、『格好悪いふられ方』などの自身のヒット曲の他、松田聖子、渡辺美里らへの楽曲提供でも活躍。音楽活動のほか、役者、司会者、エッセイ執筆でも人気を博す。08年にジャズピアノを学ぶため単身渡米。ニューヨークで4年間の学生生活を終え、2012年、アルバム『boys mature slow』でジャズピアニストとしてデビュー。日本でもブルーノートでの公演を成功させた。

  • 取材・文:森 綾

    大阪市生まれ。スポニチ大阪文化部記者、FM802開局時の編成部員を経て、92年に上京後、現在に至るまで1500人以上の有名人のインタビューを手がける。自著には『マルイチ』(マガジンハウス)、『キティの涙』(集英社)(台湾版は『KITTY的眼涙』布克文化)など、女性の生き方についてのノンフィクション、エッセイが多い。タレント本のプロデュースも多く、ゲッターズ飯田の『ボーダーを着る女は95%モテない』『チョココロネが好きな女は95%エロい』(マガジンハウス)がヒット中。
    ブログ「森綾のおとなあやや日記」 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810

撮影:萩庭桂太