インタビューは、昭和大学のある、旗の台の駅前の古い喫茶店で行った。

 駅と踏切を見下ろせる窓際に座ると、自分も学生時代にタイムスリップしたような気分になる。じゃあ、学生時代の話から聴きましょうか。なぜ、音大じゃなく、早稲田に?

「ジャズをやるなら早稲田だろうというのが、ぼくの一家揃っての見解でした。それで岐阜から上京したんです。父は尺八奏者、母は三味線奏者でした。でも邦楽に行こうという気はなかった。3歳からピアノを習わされましたが、あまり好きにはなれませんでした。ギターもダメだったな。中1のとき、東京スカパラダイスオーケストラを聴いて『これも音楽なら、ぼくは音楽が大好きだ!』と思ったんです。それでサックスを買ってもらった。初めて吹いたときにもうある程度吹けました。だからコレで行こうと思ったんでしょうね。尺八は初めて吹いたとき、音が出ませんでしたから」

 その後もフュージョンを片っ端から聴き、超絶技巧的な曲にも一時凝ったが「これじゃ一番上手い人しか勝ち目がない」と思ったそうだ。

「18歳のとき、ジャズと出会ったんです。BSでケニー・ギャレットの『She waits for the new sun』という曲が流れてきて、これだ! と思った。ざわざわっと来ました。派手さはない、深淵な感じのする曲なんですが」

 念願の早稲田大学に入り、ハイ・ソサエティ・オーケストラに所属。当時からジャズのコンテストでは多数の賞をとった。卒業したらミュージシャンになろうと考えていたが、いろいろと調べるうちに、すぐには生計が立てられないと知る。

「とりあえず学生時代の奨学金も返さないといけないし。それで就活を始めて、今の会社に受かったんです。採用担当の人と面接のときに音楽の話ばかりしていて、普通、それだと落ちるはずなんですけど、受かっちゃった。たまたま、残業も少なくて転勤はなし。それでプログラマーになりました」

 売り上げや物流管理のプログラムを作る仕事だが、彼はそれなりにこの仕事を好きになっていった。

「一時は音楽辞めてプログラマーになろうかと思ったほどでした。ところが、リーマンショック後に仕事が激減して、収入が半分くらいになってしまったんです。しかもその頃、長年付き合った彼女と別れてしまいました。まあ経済的な理由だけじゃなかったんでしょうけど、ショックでした。失恋って身内が死ぬより悲しいですよね。だって彼らはぼくを愛したままいなくなるけど、失恋は、愛がなくなるわけだから。自分を全否定されたかのような寂しさが大きくて、ストリートでサックスを吹き始めたんです」

 不況と失恋は、表現の特効薬になったのだった。

  • 出演:横田寛之

    1981年、岐阜県生まれ。父親が尺八、母親が三味線の師範という家に生まれ、13歳から始めたジャズを志して早稲田大学に入学、ハイ・ソサエティ・オーケストラで2年生でコンサートマスターとなる。卒業後はプログラマーの仕事と同時にプロのミュージシャンとセッションを続け、2009年からストリート演奏活動を開始。現在、ETHNIC MINORITYとゴウダヴという2つのバンドをもち、それぞれアルバムを発表してジャズ界からも大きな評価を得ている。
    http://www.gauchedavinci.com/

    ストリート・ソロ http://www.youtube.com/watch?v=V4tB_8udhV4
    ETHNIC MINORITY http://www.youtube.com/watch?v=dYYvSsN7Kzc
    ゴウダヴ http://www.youtube.com/watch?v=j8sXZIxYykE

  • 取材・文:森 綾

    大阪市生まれ。スポニチ大阪文化部記者、FM802開局時の編成部員を経て、92年に上京後、現在に至るまで1500人以上の有名人のインタビューを手がける。自著には『マルイチ』(マガジンハウス)、『キティの涙』(集英社)(台湾版は『KITTY的眼涙』布克文化)など、女性の生き方についてのノンフィクション、エッセイが多い。タレント本のプロデュースも多く、ゲッターズ飯田の『ボーダーを着る女は95%モテない』『チョココロネが好きな女は95%エロい』(マガジンハウス)がヒット中。
    ブログ「森綾のおとなあやや日記」 http://blogs.yahoo.co.jp/dtjwy810

撮影:萩庭桂太