一時期、OL生活を送っていたことがある。
 鹿児島県出身で、小学校までは地元にいたけど父親の転勤で、家族揃ってアメリカへ。
「英語なんてしゃべれない〝This is a pen〟レベルなのにロードアイランドの公立中学校に入って、最初は全然馴染めなかったです。しかも日本と違って生徒に自主性が求められるので、何も話さないわけにいかない。頑張りました。高校に進んで、大学はニューヨークで」
 絵を描くのが好きだったので、最初はマンガ家志望だった。
「でも途中で、自分がストーリーを考えることが得意じゃないことに気付いて、これは無理かも、って。でも絵は描きたい。絵を描く仕事は他に何があるだろう? って考えて、そうだ、ファッション・デザイナーがある、と思って、そこからずっとファッションの勉強をしてきたんです」
 FIT(FASHION INSTITUTE OF TECHNOLOGY)と文化服装学院で学んだ後、日本の大手ファッションメーカーにデザイナーとして就職した。
「将来安泰だと思って、大手に就職したんです。でもそこはデザイナーの先輩の層がすごく厚くて、上の人達が辞めない限り、10年働き続けてもアシスタントどまり、みたいな。それを見て私、デザイナーでいる必要あるかな? って考えたんです。ものを作るのが好きだったので、2年目に入る頃、ちょうど空いた販売促進のポストにしてくださいって、部長に直談判しました」
 熱意を買われて、望み通り販促へ。アイデアを出しまくって仕事は楽しかったけれど、どうやらそのあたりで人間関係の壁にぶち当たったらしい。1年後、退社することにした。
 その少し前から学生時代の友人に頼まれて、WEBのファッション撮影に、モデルとして参加。会社員なので土日しか仕事が出来なかったけれど、評判は良かった。
「で、モデルを始めたわけですけど・・・・」
 それが4年前のこと。モデルになりたての頃は、
「不安でした! 売り出すために作品撮りが多くて、ギャラも安くて、だから最初のお給料は5万円だったかな。当時は8万くらいの部屋に住んでいたから〝ヤバイ、家賃払えない!〟みたいな(笑)。そこからです。ファッション誌を片っ端から買って、勉強しました。赤文字系からモード系、メンズ誌まで全部見て、自分に取り入れられるものは全部、取り入れようと」
 そんな努力が実って、いつの間にか、どんなニーズにも的確に応える、優秀なモデルへと成長してきた。
「私が業界に受け入れてもらえたのは、私がファッションを勉強していたことと、業界の裏方にいたので、モデルに求められるものを知っていたからだと思います。服を見ればどこがセールスポイントなのか、クライアントが服のどこを見せて欲しいのか、わかるんです。服の素晴らしさを伝えるのがモデルの仕事ですから、そのためにはどんなポーズがいいのか、どう動けばいいのか。私自身をアピールするより、主役は服。服を作る側の気持ちを知っていますから。だから最初のキャリアは、無駄じゃなかったです(笑)」