東京の中央線沿線M駅近くのカフェHはどうも危険らしい。先月の「Your Eyes Only」の石神賢介氏の記事を読んで知った。なぜならば、彼も、僕も、この『週刊文春WEB』の担当デスク、N局長にカフェHで捕獲されたのである。嫌な予感はあった。

「神舘さん、最近、忙しいですか?」

 あの日、N局長は敬語で、「さん」を付けて話しかけてきたのだ。うん……? なぜ敬語なのだ……?

 この人に限らず、ふだんざっくばらんに話してくる人が突然かしこまってきたときは要注意だ。別れた妻がそうだった。「ご機嫌はいかがですか?」などと敬語で話しかけてきたとき、その後必ず何かが起こった。

 N局長も敬語の時は危険信号である。この人の場合は、こちらの仕事の仕上がりに不備があったとか、何か面倒なことを頼んでくるとか。今回は後者だった。

「仕事に余力があったら、『週刊文春WEB』の原稿を頼めませんか?」

 えっ、お仕事、いただけるんですか!?

 僕はうかつにも喜んだ。こちらがかしこまった敬語になってしまう。フリーランスにとって新規の仕事ほどありがたいものはない。しかし、このシリーズをずっと読んでいる人は承知していると思うが、このページ、ギャラはない。

 いや……まあ、少しはある。少しというのがどのくらいかというと、取材現場に電車で直行直帰すれば、数千円の利益がある。しかし、タクシーに乗ったり、帰りにご飯でも食べたりしたらアウトだ。うちには取材テープを文字起こししてくれるアルバイトの女性がいるが、彼女に仕事を頼んだ時点で赤字になる仕事なのだ。

「この原稿、いつもライターの森綾さんにレギュラーでお願いしているんですけれどね、毎週頼むと、ほかの仕事に支障が出てしまって。森さんが生活保護を受給するようなことになったら申し訳ないし……」とN局長。

 なるほど。やればやるほど貧乏スパイラルにはまっていくらしい。N局長、それを僕にもやれというのですね?

 しかし、結局、引き受けることにした。

 N局長には、日ごろからご飯を食べさせてもらっている。オムライスとか、カレーとか、そういうジャンクなレベルだが。この日も冷麺をゴチになった。また、よく目の前で本の企画をペラペラとしゃべってくれる。それを何度かいただいた。

 さらに、「今A社の新書編集部が企画をほしがっているから、アイディアを出せばすぐ仕事になるよ」などとアドバイスをくれる。N局長のアドバイス通りにすると、成果が上がる。つまり「ザ・編集者」なのだ。それで、僕の中のどこかに負い目がある。この負い目は、感謝の気持ちと言い換えることができなくもない。

 ちなみに、僕の時も石神氏のケースと同じように、N局長はスパゲッティナポリタンを割り箸で食べていた。どんな食事でもスプーンで食べる幼児を見ている気持ちになる。この人がかつて「ミートソースは嫌いなんだ!」と店のメニューを見ながら顔をしかめていたのを思い出した。ちなみに、カフェHのメニューにナポリタンはない。無理を言って作らせているのだ。

 と、まあ、このようないきさつで、今週は、先月の石神氏に続く、森さんのピンチヒッターとして、サラ オレインの写真とインタビューを掲載する。写真はもちろん萩庭桂太氏。

 サラは、オーストラリア生まれ。6月20日(水)に、デビューアルバム『セレステ』をリリースする期待のシンガーソングライターであり、かつヴァイオリン奏者だ。

 写真を見ての通り、美しい。育ちもいい。何しろ幼少の頃からヴァイオリンを習っていたのだ。そろばん塾にも通わせてもらえなかった僕とは毛並みが違う。

 彼女と何時間か一緒にいられるならば、赤字仕事も悪くないか――。そう思えるほど魅力的な、僕の生活圏では出会えない女性だ。

『セレステ』 2012.06.20発売

Blu-ray付限定盤【左】 3,675円(税込) UCCY-9014
通常版【右】 2,854円 (税込) UCCY-1025
http://www.sarahalainn.net/discography.html

  • 出演:サラ オレイン

    1986年オーストラリア生まれのシンガーソングライターでヴァイオリン奏者。子どもの頃からヴァイオリンで国内のコンクールで優勝を重ね、シドニー音楽院に入学。2006年にはシドニー大学に入学し、2008年に東京大学に留学。英語、日本語、イタリア語に堪能なことから、留学時よりコピーライターの仕事に携わる。2010年にシドニー大学を首席で卒業した後、日本での音楽活動をスタート。任天堂Wiiのゲームソフト『ゼノブレイド』やスクウェアエニックスのiPhone向けRPG『ケイオスリングス オメガ』の音楽を担当。6月20日(水)にシンガーソングライター&ヴァイオリン奏者としてのデビューアルバム『セレステ』をリリース(ユニバーサルミュージック)。7月27日(金)に神奈川県の葉山マリーナで開催される「真夏の夜のJAZZ」に出演。11月9日(金)には東京恵比寿ガーデンホールでデビューコンサートが決定。
    翻訳家としても、越野民雄著『オレ・ダレ』(講談社刊)の英語版『Who? Me?』の翻訳を担当した。

    デビューコンサートの詳細 http://www.sarahalainn.net/news/concert/01.html#top01
    オフィシャルサイト http://www.sarahalainn.net/
    公式facebook http://www.facebook.com/sarahalainn.net

  • 取材・文:神舘和典

    1962年東京都出身。音楽を中心に書籍や雑誌のコラムを執筆。ミュージシャンのインタビューは年間約70本。コンサート取材は年間約80本。1998年~2000年はニューヨークを拠点にその当時生きていたジャズミュージシャンのほとんどにインタビューを行った。『ジャズの鉄板50枚+α』『音楽ライターが、書けなかった話』(以上新潮新書)、『25人の偉大なジャズメンが語る名盤・名言・名演奏』(幻冬舎新書)、『上原ひろみ サマーレインの彼方』(幻冬舎文庫)など著書多数。

    新潮新書 http://www.shinchosha.co.jp/writer/1456/
    幻冬舎新書 http://www.gentosha.co.jp/book/b4920.html
    幻冬舎文庫 http://www.gentosha.co.jp/book/b4157.html

撮影:萩庭桂太